「実行する時にやらなくていい言い訳をなくす」
「やらない理由がない」
「迷ったらやる方向で」
今までの人生で、やはり後から考えると転機であったなあ、と思うことがある。その時にやはりやる方向でやれたなあ、という事の方が後味がいいようだ。
もちろん日々の小さな判断であればいろいろある。
まずは時間。そして費用。体力の問題もあるだろう。
費用、というのは結構大きくて、「うーん生活費でいっぱいだな。」と思っているととりあえず「節約しよう」という方向に行く。まあ、当たり前だし、それでいいのだが。
費用、というよりは「こころの余裕」であろう。やって失敗しても、まあいいか。別に生きていけなくなるわけではないし。
そう思っていないとなかなか取り組めない。
そういう方向に、意識を意識して持っていく必要があるのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり、簡単に言ってしまえば、人は存在するという、まさにそのことによって「書」いているのである。しかも、人がその中に生きているーと自分では思っているー「世界」なるものも、実は、ぎっしり「書き込まれた」エクリチュールの構成物である。どこまで遡って行っても決して始点(アルケー)に到達することのない、無始点の過去以来、およそどれほどの数の人がこの「書き込み」に参加してきたことか。
井筒俊彦 意味の深みへ P.140
どう考えても「始まり」が想定できないこの世の始まりは、そもそも「始まる」ことなくただあった、としか言えないように思っている。
それがなぜ、どのような形で「在った」のかは、なんというか科学と神話のあわい、というか、決してわかることのないこととして、生や死と同じく巨大な疑問でありつづけるだろう。
普通疑問とは、こたえられるべきもの、と自然に認識してしまうので、気を付けて「答えられない、単なる哲学により下線を引かれたもの」としての存在である、と意識的に意識せねばならないだろう。
だが、その進行状況として、「言葉」を与えられ、世界を「言葉」という魔術、あるいは呪文により、ひとは自然と構築してきた。
あたかもその時代にいったかのごとく、視覚的というよりは言葉によりありありと喚起されたイメージとして、我々は知らず追体験することができる。
そこでは、「虚偽」と多くの人間が仮に認めるような事象であっても、例えば「小説」という名目をつければ、自由に「書き」、世界を「私的に構築する」ことができる。
だがここ井筒が引用したデリダのいう「書く」はよりひろびろとした意味であり、私見では「経験によるアウトプット」といったようなニュアンスであるように思う。
それは「神」によって「別に義務付けられていない雰囲気であるが、生まれて生きている以上いやでも参加させられている」ゲームプレーヤーのログのようなもの、と言えるのかもしれない。
(それを「神」が意識して行っている、というわけではないのでしょうが)