今朝の体重64キロ、体脂肪率9.9%。
さて少し歩きすぎたのか、体重が減り気味なので意識してすこし食べているところだ。
62キロ代だとすこし痩せすぎという感があるのだが、62.1kgとなったときにはちょっと下げすぎたか、と思った。
もちろん体脂肪が落ちればいいが、あまり変わっていない。とすると筋量が!?
あまり体脂肪を無理に下げる気はなくて、冬場あまりに絞ると病気になったときにきついような気がしている。
ということで、バナナとキウイと豆腐とオレンジと牛乳ともやしと卵を仕入れた(近くのまいばすけっとを初利用)。
卵は10個198円で、名古屋だと99円のものを探すのがマイルールだが、さすがに東京ではあきらめている。
卵は20個買った。場合によっては10個はそのまま冷凍して非常用にしようかとおもっている。非常用、というのは食べもの買い置きがなくなったときのことだが(笑)。。
あと冷凍ブロッコリーとトマトを買った。このあたりも毎日の必須栄養素として織り込んでいる。
今朝は考えてみると、ブルーベリーとイチゴを食べるのを忘れた。ヨーグルトと共に食べるようにしているのだが。
さて、昨日は不忍画廊で池田俊彦さんの個展に行った。個展期間中2度目の訪問である。通常は同画廊は日曜営業がないそうだが(これを書いているのは10月24日(月)),今回長崎から来ている池田さんがお知り合いに会えるように、と日曜も開廊したとのこと。作家と寄り添う画廊の姿勢が垣間見える。
私はデューラーやショーンガウアーが大好きだが、その線に肉薄しよう、という気持ちは(それほど)ない。すこしはあるのかもしれないが、そんな思いを持つことがおこがましい、と感じさせるような圧倒的な存在なのだ。
デューラーの作品は歴史の中に屹立している。小学校の時の美術の教科書(やはり覚えているのは美術と国語の教科書のみ。国語教科書で赤毛のアンに出会えたのは人生の収穫)でメランコリアを見て、いわゆる抽象派や風景や現代美術の例に子供心にすこしうんざりしていた(すみません傲慢で)私は、目を見開かせられた気がした。
「美術でこういう方向を目指していいんだ」
言葉にするとこうなるだろうか。
たぶんあのとき美術の教科書でデューラーと出会ったことは、結構自分の人生では大きな出来事だったのだろう。あまり意識してはいなかったが。
私は生まれてからずっとファンタジーしか好きではなかった。人間、というものが退屈でしょうもないもの、となんだか思っていたようだ。逃避、かもしれない。小学校4年で描いた絵は半分が骸骨である人間の顔。中学校2年だったかでは、「翼あるもの」。
いまとなんら変わらない(汗)。
これを偏屈というのか、はたまたテーマがぶれていないとみるのか。
ちょっと自分でも「どうかな」と思う作品を、校内展示していただいた先生方には感謝している。
画廊での展示、というものは、知らない間は随分と敷居が高い気がしていたが、自身がグループ展に参加させていただくと印象が変わってくる。とても人間臭くて、魅力的な世界なのだ。
在廊する作家に、作品について聞いてみる。なぜにその作品が生まれてきたのかが伝わってくる。そして作家の生きる意味のようなものもジワリと伝わってくる。それは多数の作品を一気に視るためでもある。
自己開陳。自己紹介。絵を描くということは、限りなく個人的なことだから。
場合によっては文章もそうではあるが。
池田俊彦さんにとっての版画。デューラー、生き方、生まれ育ち考えたこと。
そんなことが2回目の訪廊で伝わってきた気がした。
(一期一会、ですね)