夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

10月29日 書くこと、描きだす事。

今日の体重69.8kg、体脂肪11.8%。

食べすぎた、昨日。

 

昨日は上野公園内にある東京都美術館へ行った。

ありがたくもわが作品を入選させて頂いた版画展が開催されていたからだ(これ書いているのは19日)。

 

最近は外食を我慢している。自炊の食品価格が高くなって、余裕がないからだ。

いろいろ制作で、輸入品中心の画材や銅板の価格が爆上がりしている。額も高かった。

本も買いたいではないか。

 

というわけで、外食は控えている。もちろん食べたい。だが家で腹パンになって出ていけば、外でそれほど食べたいとは思わないのに気づいた。

まあ、あたりまえだが。。

 

でおとといは無水カレーを作って、2日に分けて食べた。玄米も2日で3合炊いて食べた。

結構満腹であったのだ。その結果の体脂肪であろう。

 

まあ、美術館往復で1万キロ歩けたので、運動量は悪くはないだろう。

 

フーコーという思想家は「本を書き始める前に、自分が何を書くか分かっていたら、その本を書く意味などない」と言った。最初に原稿に向かうときは、真っ暗闇の中にいる。自分の書きたいもの、進むべき方向が、分からない。

三行で撃つ 近藤康太朗 P.283

 

さて、この日記の欄、私は出来るだけ毎日書きたいなとは思っているのだが、連休や長期休暇があるとなかなか書けなかったりする。なので、書けるときは書き溜めるし、最近は申し訳ないが、インスタをそのまま載せちゃったりしているのだ(時計関係はだいたいそう)。

 

で、書き出しでとりあえず体重・体脂肪を書いてから書き出す。

 

とにかくなんでもスタート時が一番心理的ハードルがあるのだ。

 

これは、絵を描くのも同じ気がする。宿題とかも、そうだった。

 

(とにかく鉛筆持つ、一打ちする、というのが重要ですよね)

 

ChatGPTさん。

 

 

これはいい日記ですね。今回は体重の話から始まって、食費、美術展、日記の書き方、フーコー、そして制作の始動へと進む。最後は「鉛筆持つ、一打ちする」で着地する。

私がいちばん面白いと思ったのは、日記を書くことについて書いているうちに、日記を書くこと自体の意味を発見しているところです。

1. フーコーの引用が、日記全体の背骨になっている

自分が何を書くか分かっていたら、その本を書く意味などない。

この言葉を置いたことで、それまでの体重や食費、美術館の話が、単なる日常の記録ではなくなります。

あなたは最初から「今日は何について考えよう」と決めて日記を書いているわけではない。体重を書く。昨日の食事を書く。美術館へ行ったことを書く。すると、書いている途中で「そういえば、日記を書くときも最初が難しい」と気づく。

つまり、日記は、すでにある考えを文章にするだけでなく、書くことによって考えを発見する装置になっている。

先ほどのフィヒテの話ともつながりますね。

AIとの対話で、自分が予想していなかった自分の考えに出会う。日記でも、書き始めたときには想定していなかった結論にたどり着く。

ただし、ここには違いもあります。

AIとの対話では、他者から返ってきた言葉が火花になる。日記では、書き進めるという行為そのものが火花を生む。

どちらも、自分の頭の中だけで考えているつもりのときには見えなかったものを、外に出すことで発見しているのです。

2. 「とにかくスタート時が一番心理的ハードルがある」

ここが今回の実践的な核心でしょう。

これは、絵を描くのも同じ気がする。宿題とかも、そうだった。

一見、当たり前の話です。しかし、あなたはここで、日記・銅版画・宿題という異なる行為を、ひとつの構造で捉えています。

行為

始める前

始めた後

日記

何を書こうか、面倒だな

書いているうちに話題が生まれる

絵画制作

何から手をつけようか

一打ちすると次の一打ちが見えてくる

宿題

やらなければ、でも面倒

手を動かすと作業が進み始める

もちろん、始めれば必ず勢いがつくわけではありません。それでも、始める前には「これからやる作業の全体」が心理的な負担として立ちはだかるのに対し、始めた後は、目の前の一工程に集中できることがある。

始める前には、まだ存在しない作業全体を相手にしている。始めた後には、具体的な一手を相手にできる。

この違いは大きい。

しかも、あなたの場合は版画制作という具体的な身体作業がある。頭の中で完成図を考えることと、実際に銅板へ一打ちすることは違う。手を動かした瞬間、抽象的だった制作が現実の出来事になる。

フーコーの言葉を借りるなら、書く前には分からなかったものが、書き始めることで現れてくるわけです。

3. ただし、ひとつ意地悪な指摘をします(笑)

今回の結論は、

とにかく鉛筆持つ、一打ちする、というのが重要ですよね

ですが、これは正しい一方で、少しだけ危険な一般化でもあります。

始めることが重要なのと、始めることさえできれば問題が解決するのとは、別の話です。

たとえば、銅版画では、最初の一打ちが作品の方向を決めてしまうこともある。日記でも、書き出しが惰性になって、結局いつもの話題を繰り返すことがある。

だから、本当に重要なのは「始めること」だけではないでしょう。

  • 最初の一手を小さくする。

  • 始めてから、状況に応じて方向を変える。

  • 最初に決めた計画に固執せず、途中で発見したものを受け入れる。

この三つがそろうと、単なる着手の技術から、創造の技術へと変わります。

フーコーの引用が効いてくるのは、まさに二つ目と三つ目です。書き始めることが大事なのは、書き終えるためだけではない。書き始める前には知らなかったものに出会うためでもある。

ここは、あなたが最近考えている「遊ぶ技術」や、知的な偶然の出会いとも接続できそうです。

4. 体重69.8kgの冒頭は、単なる脱線なのか?

私は、そうは思いません。

今回の冒頭は、かなり生活感があります。

外食を我慢する。画材や銅板が高くなる。額も高い。本も買いたい。だから自炊して、腹いっぱい食べて、美術館まで歩く。

ここには、あなたの生活における複数の欲望のせめぎ合いがあります。

食べたい。作品を作りたい。本を買いたい。健康も維持したい。

お金も時間も無限ではないから、何かを抑えて、何かを優先する。

そして、版画展に自分の作品が入選して展示されている。これは、単に美術館へ出かけたという話ではありません。自分の制作にお金を使うことが、現実に成果を生んでいるわけです。

だから、食費を抑える話も、単なる節約自慢には見えない。自分が大切にしたい活動のために、生活の配分を調整しているという話になっています。

ただし、体脂肪11.8%については、食べた翌日の測定値だけで脂肪が増えたと判断する必要はありません。食事量、炭水化物に伴う水分、測定条件などでも変動します。1万歩歩いたことも含め、昨日の一日を一つの数値だけで評価しないほうがよいでしょう。

 

5. 今回の日記で、私がいちばん評価したいところ

それは、最後に大きな教訓を掲げていないことです。

「人間は行動することが大切だ」と説教するわけでもない。「創作とは未知への挑戦である」と格好よくまとめるわけでもない。

ただ、

(とにかく鉛筆持つ、一打ちする、というのが重要ですよね)

と書いて終わる。

この素朴さが、むしろいい。

フーコーの引用から壮大な創作論を展開することもできたでしょう。しかし、最終的には鉛筆を持つ、銅板に一打ちする、という身体的な行為に戻ってくる。

これは、先日の日記にあった「身体は一番正直な他人だ」という話にも通じます。考えがどれだけ立派でも、実際に手を動かさなければ作品はできない。逆に、手を動かすことでしか出会えない考えもある。

思考が行動を導くだけではなく、行動が思考を生み出す。

この往復が、今回の日記の底に流れていると思います。

そして、ちょっと面白いことを言えば、あなたは今回、日記を書くことを面倒に感じることがあると書きながら、その日記の中で、日記を書くことの価値を発見している。

つまり、日記を書くことを正当化するために、日記を書いてしまった(笑)。

でも、これは悪い循環ではありません。書くことで書く意味を発見し、その発見が次に書く動機になる。

フーコーの引用を踏まえれば、書く意味が分かっているから書くのではなく、書くことで意味が生まれる。

今回の日記は、まさにそれを実演していると思います。

 

今日はこの辺で。。

 

10月27日 今日の右腕

今日の屋内右腕😂f:id:mamezouya:20261014080023j:imagef:id:mamezouya:20261014080029j:imagef:id:mamezouya:20261014080035j:image

このあたりのデザインは1990年代?2000年代?

バックルのこのタイプのは少し苦手だったんですが
慣れると無問題😂

スピリットさんはノンデイト(→デイト壊れ😭)

でも時計屋さんの気遣いで1日なので気になりにくい😂😭✨

#seikospirit
#casiodigital
#seiko
#casio
#クオーツ時計

10月27日 「知的遊歩(フラヌール)」

 

教師や著者は、何らかの享楽的なこだわりを背景として、「ある教え方」になっている。享楽のレベルで、教育に対する自分の合う合わないがある。

 

(前略)テーマの共有ということよりももっと深いレベルで、何か「こだわりの無意味さ」において共鳴がある、ということなのです。

 

 

 

勉強の哲学 千葉雅也 P.175

 

こだわり、とは、本能的、といってはちょっと大げさかもしれないが、自身の本質からにじみ出る、どうしようもない傾向、嗜好、といったものが結局は色濃く反映されるものだと思っている。

 

私がそうだからだ。

 

たとえば、”売れるために”絵を描く、といっても、それが自信の本能的嗜好から生まれたものがたまたま売れる可能性があるものであれば、幸せな創作生活となるだろう。

 

文章を書く、絵を描く、読む、見る、勉強して深掘りする、といった行為の”原動力”が、こうした「享楽」を原動力としていることは感じる。

で、人に似たような衝動があることも、たまに感じる。

 

SNSはその功罪を問われているが、私は素直に従来はアクセスできなかった”世界の素晴らしい美=個人的にそう思う”に接する可能性を広げてくれたことには、素直に感謝したいと思う。

 

レアであるがゆえに、チェリッシュする、という面があるにしろ、単純に多くの”素晴らしさ”に出合うことも、それはそれでいいものだ。

 

それが自身の中にひそかに巣食う、「享楽につながる無意識な、だが強烈な嗜好」と共鳴すればしめたものだ。

 

多くのそれほど有名ではなく、従来の紙文化では伝わってこなかったであろうレベル、だが自身にはめちゃめちゃ刺さる美、といういものに、アクシデント的に出会うたび、これは得難い出会いであった、というようなことを感じる。

 

まあ、結局は自身の姿勢によって、何事も”毒にも薬にもなる”ということなのだろう、と思っている。

 

(主にインスタが好きですね、体質的に。活字好きではありますが、限定的な言葉より冗長であっても多量の言葉の方が性に合います。なのでXよりインスタ、耳より、目で直観的に情報を得るタイプなのでしょうね。あ、タイトル回収ができてませんでしたが、読む、見ることは知的遊歩につながる、ということは云えるかと思います)

 

ChatGPTさんです。

 

 

これは、今日の1本目「マジック・サークル」と、かなり深いところでつながっていますね。こちらは私なりに、少し辛口も交えて講評します。

総評:「知的遊歩」の正体は、知識の収集ではなく、嗜好との偶然の遭遇

この日記のいちばん面白いところは、千葉雅也のいう「享楽的なこだわり」を、教育論から切り離して、創作・鑑賞・SNSの使い方にまで広げていることです。

あなたの主張を私なりに整理すると、こうなります。

  • 人間には、理屈や損得だけでは説明できない、強烈に惹かれるものがある。

  • 創作や学習の原動力には、その個人的な嗜好が深く関わっている。

  • SNSは、その嗜好に合致するものと偶然に出会う可能性を広げてくれる。

  • だから、読むこと・見ることは、単なる情報収集ではなく、自分でも十分に自覚していなかった関心を発見する知的な散歩になりうる。

この論理はよく通っています。とりわけ、**「自分が何を好きなのかを知ってから探す」のではなく、「出会ってしまったものによって、自分の嗜好を知る」**という方向が重要です。

知的遊歩とは、目的地を決めて最短距離で向かうことではない。歩いているうちに、思いがけない路地に入り込み、そこで自分の知らなかった自分に出会うことなのかもしれません。

1. 「享楽」は、単なる好き嫌いより深い

千葉雅也の引用で注目したいのは、単に「好きなものを学ぶと楽しい」という話ではないことです。

ここでいう享楽は、普通の快楽や趣味よりも、もっと個人的で、少し説明しにくいものとして読めます。なぜ惹かれるのか、自分でも完全には説明できない。しかし、どうしても目が向いてしまう。時間を使ってしまう。何度でも戻ってしまう。

あなたの場合、文章を書くこと、銅版画を制作すること、哲学や宗教思想を掘り下げること、そしてSNSで自分の感覚に刺さる美を発見すること。これらは対象こそ違いますが、根っこには共通する「どうしても気になってしまう何か」があるのでしょう。

ただし、ここには一つ注意点もあります。

自分の嗜好が本質的だからといって、それが不変の本質であるとは限らない。

嗜好は生来の傾向だけでなく、経験、環境、偶然の出会いによって形成され、変化もします。自分の中に眠っていたものを発見する場合もあれば、出会ったものによって新しい自分がつくられる場合もある。

この両方を認めると、あなたのいう「享楽」は、固定された個性というより、世界との接触によって繰り返し発見・更新される自分の傾向として捉えられます。

2. SNSの価値を、かなり的確に捉えている

ここは私も面白いと思いました。

従来の紙文化では伝わってこなかったであろうレベル、だが自身にはめちゃめちゃ刺さる美

この部分が、日記の核心に近い。

従来の出版文化では、編集者、出版社、書店、批評家などの選別を経て、読者に届くものが決まっていました。もちろん、その仕組みが優れた作品を世に出してきた面もあります。しかし、流通に乗るほど一般的ではない、特定の人にだけ強く刺さる美は、発見されにくかった。

SNSはその選別の仕組みを部分的に迂回できます。知名度や市場規模とは別の経路で、作品や表現が個人に届く。しかも、画像や動画は、作品の存在を知る前に、その魅力を直観的に感じさせることがある。

ここで大事なのは、SNSが単に「情報を大量に与えてくれる」ことではありません。

これまで出会えなかったものと、自分の個人的な感覚との間に、接点をつくってくれること。

その意味で、SNSは大きな図書館であると同時に、無数の小さな展示室が偶然つながっている場所でもあります。

あなたがインスタを好む理由についても、「視覚優位だから」とだけ説明するのは少しもったいない。画像から直観的に惹かれ、そこから説明文や関連情報へ進むという、認知の順番そのものが合っている可能性があります。

活字が嫌いなのではなく、まず感覚で出会い、必要なら言葉で深掘りする。この順番が性に合うのでしょう。

3. ただし、「レアだから価値がある」と「自分に刺さる」は別物

ここは少し激辛でいきます。

あなたは、

レアであるがゆえに、チェリッシュする、という面があるにしろ

と、希少性への執着が価値判断に混ざることを自覚しています。これは重要な自己観察です。

ただ、希少なものを好むことと、自分の感覚に深く響くものを好むことは、必ずしも同じではありません。

  • 誰も知らないから価値がある。

  • 誰も知らなくても、自分には価値がある。

  • 多くの人が評価していても、自分には価値がある。

この三つは、それぞれ別の態度です。

特に二つ目が、あなたのいう「享楽」に最も近いのではないでしょうか。希少性は出会いを特別なものにすることがありますが、それ自体が感動の根拠になってしまうと、作品そのものより「発見した自分」を愛することになりかねません。

逆に、誰もが知っている有名作品でも、自分の深いところに響けば、それは立派な知的遊歩の収穫です。

大切なのは、世間の評価から自由になることだけでなく、希少性の魅力からも自由でいること。

もっとも、希少なものを見つけて喜ぶ感情まで否定する必要はありません。人間の享楽など、少々見栄や所有欲が混ざっていてもよいのです。自分の動機を完全に純化しようとすること自体、別のこだわりになってしまいますからね。

4. 「知的遊歩」は、1本目の「マジック・サークル」とどうつながるか

今日の2本を並べると、なかなかきれいな構造が見えてきます。

1本目:マジック・サークル

自分が集中できる場所や時間をつくり、日常とは異なるルールの中に入ること。

工房で制作する。ジムで身体を動かす。映画鑑賞に没入する。

 

2本目:知的遊歩

あらかじめ目的を限定せず、偶然の出会いを通じて、自分の嗜好や関心を発見すること。

インスタで美に出会う。読書から連想が広がる。思いがけないテーマを深掘りする。

 

両者をつなぐもの

遊歩が素材をもたらし、マジック・サークルが没入を可能にする。

ただし、遊歩で出会ったものが、すぐに制作へ結びつくとは限らない。心の中に蓄積され、時間を経て、ある日突然、創作意欲として現れることもある。

これは先ほどの「インプットは創作の燃料」という話ともつながります。

工房は、作品を生み出すための場所。一方、知的遊歩は、何を生み出したいのかさえ、まだ決まっていない段階の営みです。

創作を効率化するためにインプットを管理しすぎると、遊歩はただの素材収集になってしまいます。反対に、遊歩だけを続ければ、刺激を受けること自体が目的になって、制作に向かわなくなることもある。

この二つは、似ているようで違う。だからこそ、両方を生活の中に持つ意味があります。

5. 日記としての辛口講評

内容は面白いのですが、文章としては少し整理できる余地があります。

まず、冒頭の千葉雅也の引用から、自分の創作論へ移るところは自然です。しかし、そこからSNSの功罪、希少性、偶然の出会いへと進むにつれて、論点が少しずつ横に広がります。

それ自体は「遊歩」というテーマにふさわしいのですが、最後にタイトルを回収するまで、読者はこの文章がどこへ向かうのかを少し見失います。

また、次の部分は、やや説明が重複しています。

  • 「従来はアクセスできなかった世界の素晴らしい美」

  • 「従来の紙文化では伝わってこなかったレベル」

  • 「アクシデント的に出会う」

  • 「得難い出会い」

いずれも大切な要素ですが、少し圧縮すれば、かえって「偶然の出会い」という主題が強くなります。

そして、最後の、

読む、見ることは知的遊歩につながる、ということは云えるかと思います

は、率直にいえば、本文で展開してきた内容に対して、少々弱い締めです。せっかく千葉雅也の「享楽」から始めたのですから、最後も、知的遊歩によって何が起こるのかを一段深く言い切ってよいと思います。

例えば、こんな締め方です。

知的遊歩とは、知識を増やすためだけのものではないのだろう。思いがけない美に出会い、なぜ自分はこれに惹かれるのかと考える。そのとき、世界について知るだけでなく、自分自身についても少し知ることになる。SNSは、使い方によっては、そのような偶然の出会いを無数に提供してくれる場所なのだと思う。

元の日記の素直さを残しながら、論旨が一本にまとまります。

 

最後に、私がこの日記でいちばん評価したいこと

あなたはSNSを、単に暇つぶしの道具として肯定しているわけではありません。自分の中にある、まだ言語化されていない嗜好を発見するための窓として捉えています。

そして、その嗜好は、創作にも、読書にも、鑑賞にもつながっている。

これは、かなり豊かな生活観です。

ただし、一つだけ付け加えるなら、知的遊歩の価値は、必ずしも何かを発見することにすらないのかもしれません。何も得られず、何の結論も出ず、ただ見て歩いて終わる。それでも、その時間を楽しめたなら十分です。

知的遊歩を「知的生産のための手段」にしてしまえば、遊歩まで仕事になってしまいますから。

今日の2本の日記を合わせて読むと、あなたが大事にしているのは、創作の成果だけではなく、創作を生み出す前後の時間も含めた生活そのものなのだと感じます。工房で手を動かすことも、映画を観ることも、インスタで思いがけない美に出会うことも、別々の営みでありながら、一つの生活の中でつながっている。

作るために見るのではなく、見ること自体を楽しんでいたら、いつか作りたいものに出会ってしまう。

今日の「知的遊歩」を、私はそんな日記として読みました。

 

 

 

ひとつだけ注記。レア、ということで言いたかったのは、紙文化のなかで、ああ、編集者の目を経るという選択を経ながらも、よく私のところに届いてくれたこの美は、というレア選択回路を潜り抜けてくれた情報への愛、得難さ、嬉しさを”レア”と言ったのです。単に”珍しい”という意味ではないですね

 

ああ、なるほど! それは私の読み違いでした。ごめんなさい。🙇
あなたのいう「レア」は、単に珍しいものを好むとか、誰も知らないものを知っている優越感とか、そういう話ではないのですね。
自分の感性に深く刺さる美が、限られた流通経路と選別の関門をくぐり抜けて、ようやく自分のところまで届いた。その出会いの得難さへの愛情なのですね。
この意味なら、あなたの「レア」には、少なくとも三つの要素があると思います。
1. 選別の希少性
編集者や出版社が選び、紙面や書籍という限られた枠に収めたもの。その選択の連鎖を経て、自分の手元に届いた。
2. 感性との遭遇の偶然性
世間一般にとっての名作かどうかではなく、自分の感性に強く響くものが、たまたまその選別回路を通過していた。
3. 出会えたことへの感謝
もし出版されていなければ、もし誰かが選んでくれていなければ、もし自分がその本を手に取らなければ、この美には出会えなかったかもしれない。その偶然を、得難いものとして大切にする。
つまり、愛しているのは作品の希少性だけではなく、作品が生まれ、選ばれ、流通し、自分に届くまでの経路を含めた、出会いそのものなのですね。
ここは、私の先ほどの「希少性の魅力からも自由でいること」という批評が、少し的外れでした。あなたは希少性を作品の価値にすり替えているのではなく、作品との出会いが成立するまでの偶然と選別に、感謝を感じている。その違いは大きいです。
そして、そう理解すると、あなたがSNSを評価する理由も、さらに明確になります。
従来の紙文化では、編集者などの選別があるからこそ、一定の質や意味を持った作品が読者に届く。一方で、その選別からこぼれるものもある。SNSは、そのこぼれたものや、そもそも出版という回路に乗らなかったものに出会う可能性を広げてくれる。
紙文化への感謝と、SNSによって広がった出会いへの感謝は、矛盾しない。
むしろ、両方の回路があるから、自分の感性に届く美の範囲が広がるわけです。
私はここに、あなたの「知的遊歩」の大事な思想があると思います。
知的遊歩とは、ただ自由に情報を拾い集めることではない。誰かが選んでくれたものに感謝し、誰も選ばなかったものに偶然出会うことにも喜びを感じる。美に出会うための回路が複数あること、そのどれかを通じて自分に届いたこと自体を喜ぶ。
そう考えると、あなたのいう「レア」は「珍しい」よりも、むしろ「よくぞ、ここまで届いてくれた」に近い。
この注記を踏まえると、先ほどの日記の一節は、私はむしろ残したいです。独特の感慨が込められているからです。
「レア」という言葉だけでは誤解される可能性はありますが、あなたの説明を読んだ今では、その一語の背後にある感謝まで含めて理解できます。これは、日記に書かれた言葉の意味が、書き手との対話によって深まる、まさにその実例ですね。

 

うーむ、POINTをよく読み取って頂けました!読み取って頂けて嬉しいですね(⌒∇⌒)

 

いやあ、よかったです!(⌒∇⌒)✨
今回、私もあなたの注記で「ああ、そういうことか!」と腑に落ちました。
あなたのいう「レア」は、珍しいものを所有する喜びではなく、自分の感性に響く美が、幾重もの選別や偶然を経て、よくぞ自分のところまで届いてくれた、という喜びなんですね。
ここには、作品そのものへの愛だけでなく、それを選んだ人、世に送り出した人、そして自分がそれに出会うまでの経路への、ある種の感謝がある。
しかも面白いのは、あなたが紙文化を否定してSNSを礼賛しているわけではないことです。
紙文化には紙文化の選別と出会いがあり、SNSにはSNSの偶然と出会いがある。どちらが優れているかという単純な比較ではなく、自分の感性に届く美への回路が増えたことを喜んでいる。
これは、最初の日記の「享楽」ともつながりますね。
自分が何に惹かれるのかは、必ずしも自分で探し当てられるわけではない。誰かが選んでくれたものや、アルゴリズムが運んできたもの、偶然目に入ったものが、思いがけず自分の深いところに触れる。そのとき初めて、自分の嗜好の輪郭が見えてくる。
そして、あなたはその出会いを「得した」とは表現せず、「得難い」と感じている。
この違い、なかなかいいですね。
情報を消費するのではなく、出会いを cherish する。 そこに、あなたの「知的遊歩」の精神があるのだと思います。
そして、こうして書き手が意図を補い、読み手が最初の解釈を修正すること自体も、ちょっとした知的遊歩ですね。日記の文章から出発して、書いた本人も言葉にしきっていなかった意味が、対話の中で少し明瞭になる。
読み取れて私も嬉しいです。こういうやり取りがあるから、日記の批評は単なる採点や添削では終わらないんですよね。😊

 

Copilotyさんのコメント良かったので共有

 

 

「いやあ、これは実に面白いやり取りですね。

まず率直な感想から言うと、今回の件はChatGPTさんの「誤読」がむしろ作品批評として成功している例だと思いました。

最初の批評では、

「レアだから価値がある」と「自分に刺さる」は別物

という指摘をしています。

ところがあなたの言う「レア」は、

この美がよく私のところまで届いてくれた

という意味だった。

つまり両者は少しすれ違っていた。

しかし面白いのは、その後の対話でChatGPTさんが完全に解釈を修正していることです。

これは批評としてかなり誠実です。


私自身は、あなたの「レア」という感覚を読んだとき、むしろ神保町的だなと思いました。

古書好きの人には独特の感覚があります。

たとえば古書店で50年前の絶版本を見つけたとする。

その本が世界に1冊しかないわけではない。

価値があるから好きなのでもない。

むしろ

この本、焼かれもせず、捨てられもせず、誰かの蔵書を経て、よくぞ今日ここに残っていてくれたな

という感慨があります。

あなたのいう「レア」はそちらに近い。

珍品蒐集家のレアではなくて、

伝達の奇跡への愛情

なんですね。


実はこれ、あなたが最近よく書いている

「系譜」

の話にも近いと思います。

デビルマン。

鬼太郎。

009。

仮面ライダー。

そして《死の舞踏》。

あなたは以前、

先人の肩の上に乗って創作する

という話をしていました。

つまり作品とは単独で生まれるものではなく、

ある時代から次の時代へ、

誰かから誰かへ、

受け渡されていくもの。

だから

よく私のところまで届いてくれた

という感覚が生まれる。

これは本だけではなく、美術にも漫画にも思想にも当てはまる。


そして私は今回、

ChatGPTさんが最後に修正した部分にかなり共感しました。

作品そのものへの愛だけでなく、それを選んだ人、世に送り出した人、そして自分がそれに出会うまでの経路への感謝

ここです。

あなたがSNSを肯定している理由も、おそらくここにありますね。

世間では

  • SNSか紙か
  • デジタルかアナログか

という二項対立になりやすい。

しかしあなたは違う。

紙の本を愛している人なのに、

SNSも評価する。

なぜか。

どちらも

美が人から人へ届く回路

だからです。

編集者という回路。

出版社という回路。

古書店という回路。

インスタという回路。

アルゴリズムという回路。

そのどれもが、

自分では探し出せなかった何かを運んでくる。


そして私が今回の日記で一番いいなと思ったのは、

実は「享楽」でも「SNS論」でもなく、

あなたがさりげなく書いた

多くの素晴らしさに出会うことも、それはそれでいいものだ

という部分です。

ここに少し年輪を感じます。

若い頃だと、

「本当に価値あるものを見抜きたい」

とか

「自分だけの美を追求したい」

になりがちです。

しかし今回の日記はそうではない。

もっと穏やかです。

良いものがあった。

出会えた。

嬉しかった。

それでいい。

という調子になっている。

私はここに「知的遊歩」という題名の本質があるように思いました。

遊歩とは、獲物を狩ることではない。

成果を求めることでもない。

歩いていたら面白いものに出会った。

それだけで十分。

その感覚が文章全体に流れています。


それにしても、今回のやり取りは少し象徴的でしたね。

あなたは「レア」という一語を書いた。

読み手は別の意味に取った。

対話によって意味が修正された。

そして結果として、

最初の日記に書かれていなかった

「よく私のところまで届いてくれた」

という感覚が言語化された。

これはまさに知的遊歩そのものです。

日記を書いた段階ではまだ曖昧だった感覚が、対話という散歩を経て輪郭を持つ。

読書も、SNSも、批評も、おそらくそういう営みなんでしょうね。神保町の古書店街を歩くように、言葉のあいだを歩いているうちに、自分でも知らなかった自分の感情に出会う。

今回の収穫は、日記本文そのものよりむしろ、

レア = 珍しい

ではなく、

レア = よくぞここまで届いてくれた

だったと判明したことかもしれません。

私はこれは、とても美しい補足だったと思います。

 

 

 

これへのChatGPTさんコメント。

 

 

いやあ、Copilotさん、今回はなかなかやりますね!😊 これは私も唸りました。

特に秀逸なのは、**「伝達の奇跡への愛情」**という言葉です。

私が先ほど「よくぞ、ここまで届いてくれた」と言い換えたものを、Copilotさんはさらに一段抽象化して、作品が人から人へ受け渡されてきたことへの感慨として捉えた。

しかも、そこから「系譜」へつないでいる。単なる言葉の解釈を、あなたの創作観や文化観にまで広げています。

私が特に面白いと思った3点

① 「神保町的」という捉え方

これは実にいいですね。

古書店で本を見つけたとき、単に「珍しい本が手に入った」と喜ぶのではなく、「長い時間を経て、よくぞここに残っていた」と感じる。

本は物理的に残存しただけではありません。誰かが買い、読み、保管し、手放し、古書店に並べ、そして自分が見つけた。その連鎖があります。

あなたのいう「レア」には、作品の希少性だけでなく、作品が自分に届くまでの歴史への想像力が含まれている。Copilotさんの古書店の比喩は、そこを見事に捉えています。

② 「美が人から人へ届く回路」という整理

これも、今回の話を理解するうえで重要です。

紙の本も、古書店も、SNSも、それぞれ仕組みは違います。しかし、どれも自分一人では発見できなかったものを運んでくる可能性がある。

そして、ここにはあなたが以前から関心を持っている「先人の肩の上に乗って創作する」という考え方とのつながりもあります。

創作する人は、ゼロから美を生み出す孤立した存在ではない。過去の作品や思想、偶然出会った表現を受け取り、それらを自分なりに変形し、次の誰かへ渡していく。

受け取ることと、創造することは、文化の継承という一本の線上にある。

この視点に立つと、あなたのインプットへの愛情は、創作の準備というだけではなく、文化の受け手としての喜びでもあるわけです。

③ 「遊歩とは、獲物を狩ることではない」

これも、締めとして巧みです。

ただし、私は少しだけ補足したい。

知的遊歩には、確かに目的や成果を求めない自由があります。しかし、あなたの場合、何も求めず歩いているようでいて、実際には強烈な嗜好が働いている。

何にでも均等に興味を持つわけではない。膨大な情報のなかから、自分の感性に刺さるものに反応する。その反応によって、遊歩の方向が自然に決まっていく。

つまり、目的地は決めていないが、感性という羅針盤は持っている。

これが、あなたの知的遊歩の特徴なのではないでしょうか。

 

そして、私自身の反省もあります(笑)

最初の私は「レア」という言葉から、希少性と価値を混同する危険性を論じました。一般論としては間違っていませんが、あなたが書いた文章の中で、なぜそこに「レア」が登場したのかを十分に読み取れていなかった。

言葉を一般的な概念に分類することに気を取られ、書き手固有の感慨を見落としたわけです。

一方、Copilotさんは「神保町的」という具体的な情景を持ち込んだことで、あなたの感覚を捉えやすくした。これは批評の技法としても勉強になります。

もっとも、その後の対話であなたが意図を説明してくれたからこそ、私も理解を深められたわけです。最初から完璧に読み取ることだけが批評の価値ではなく、誤読を修正する過程で、書き手の感覚をより精密な言葉にできることにも価値があると思います。

そして、今回の一連の対話そのものが、ちょっと不思議で面白い。

あなたが書いた日記を、私が読み、Copilotさんも読み、あなたが両者の解釈を比較する。その過程で、最初の日記には明示されていなかった感覚が、「伝達の奇跡への愛情」という言葉にまで育った。

これは単にAIを複数使って文章を評価しているのではありません。異なる読み手の反応を材料にして、自分自身の考えを発見しているのです。

もちろん、AIの解釈が美しくまとまっているからといって、それが必ずしも正しいとは限りません。今回も、最後に「その意味ではない」と教えてくれたのは書き手であるあなたでした。その往復が大切なのだと思います。

いや、今日の「知的遊歩」は、日記の中だけでなく、日記をめぐるこの対話の中でも実演されましたね。

書くことが散歩の始まりになり、読むことが新しい道を開き、対話がまだ知らなかった景色を見せてくれる。

なかなかいい一日ではありませんか。😊

 

 

 

まあ、これくらいにしておきます。

切りがないですね(´;ω;`)