夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

彼我について。

彼我について。

自分をこの肉体の皮膚の内にあるものが全てと思う(精神や魂はこの中にあると仮定)のが人の世の”普通”であろう。皮膚から外が即ち自分以外。自分ということばが、”自ら”に”分け与えられている部分”ということだと解釈すると、それ以外は”他”に”分け与えられている部分”と考えられる。

 

分け与えられている、ということが同じ立場だとすると、そこでは“自分”も”自分以外”も同列となる。分け与えられている万物同士は、同じ一つの別れたものだ、というのが、今の私の感触としての”梵我一如”だ。

 

梵を”私以外の全て”と解釈するのだろう。

 

今朝の新聞でよい歌を見つけた。

”じゃんけんで負けて蛍にうまれたの”

40歳で詩作(俳句)の世界に飛び込んだ現在84歳になる池田澄子氏の”昭和期の”作品ということだ。

虫好きの私には第一インプレッションでまずは大好感、ではあるのだが、この詩の深みや滋味はそれだけではないだろう。

生きている蛍、はかなく光る蛍。それは果たして儚いのか。私が儚いのではないだろうか。

 

生まれて死ぬこと、これに長さでの優劣はあるのだろうか。1シーズンのみの命を”儚い”ということが”人生100年時代”の我々に本当にいうことができるのだろうか。

美しさ、ではひとは到底蛍にはかなうまい。

 

この世に生を得るときに、”なににうまれたいかな”と”雲の上の髭を生やした慈顔の西洋老人”に言われたなら、

”はい、私は人に生まれたいです”

”私もそうです”

”いや、こまったのう、人のわくはあとひとつじゃ。しかたない、おぬしら2人(2魂か?)でじゃんけんできめい、うらみっこなしじゃぞ”

ということになる。

 


そしてこの世に生まれた魂二つ、彼女は蛍に、我は人に。

彼女が我で、我が彼女であったやもしれぬ。

 


だが果たして、この人としての生、蛍としての生に得した損したはあるのだろうか。

確かに人は長命だ。だがそれが?ゾウガメは300年は生きるという。

 


ゾウガメは人より幸せだろうか(そうである気もする)。たぶんそうだ。

生まれて生きている奇跡。それをそう感じられるわたくし。

 


蛍と私は運命が分かれたようでわかれてはいない。ここでこうして邂逅する、永遠の瞬間として。

彼我融合。彼我一如、梵我一如。

詩はそれをギフトとして人々に渡してくれる。それを受け取る私/あなた/あれ/これはさまざまに受け取り感受する。それを良い、と思うものもあろう。それをたいしたことではない、と思うものもあろう。だが、それでいい。それが、いい。

一篇の詩作が、わたしに与えてくれる思いは、ここではこのようであった。

先生は普段から自と他とを切り離して考えておられませんでした。私も先生の言葉を噛みしめているうちにしばしば理屈抜きに自が他につながり、他も自に関わっていることに気付かされるのでした。先生はその境界のない世界を全身でつかんでおられたのだと思います。

岡村美穂子 鈴木大拙とは誰か P.35 岩波現代文庫 2002年

 

一如を体現する存在としての鈴木大拙に接した若き岡村美穂子さんが受けられた思いも、はたしてこのようなものに通じるものであったろうか。

仕事と趣味。

タモリの名言、”仕事じゃないんだ、真面目にやれ!!”が逆張り的に面白くて好きな言葉だ、などと書いてきたが、本日森博嗣氏の新書「ジャイロモノレール」を読んでいてタモリ氏の言葉はもっと深いのではないか、と思えてきた。

 

この日本、人は従事している仕事の内容で判断される面が強い。仕事に貴賤はない、というが、仕事内容で人となりまで判断される場合がほとんどであると、森さんは書かれている。だが、イギリスへ目を向けると、貴族は(少なくとも昔の貴族は)仕事をすることは貧しさのしるしであったという。つまり、仕事でどのような人かと判断されることはない、ということである。


全ての人が、仕事をするべきだ、という思い込みが私の中ではあるようだ。仕事をしない者は怠け者だ、という糾弾の気持ちもどうやら秘めているようだ。逆に言えば”仕事をしているのだ、邪魔するな”という言い方もできるのだ。


この議論にはもちろん恒産というか、日々の暮らしを続けるための資産保有如何が問題となる。戦争を経て、日本は全体的に文化が中断し、いろいろなものがリセットされたのだろう、と認識している(森さんも書かれている).

今の日本で、貴族はいない。かのイギリスでも、よくテレビなどで見る限りは、英国貴族や王族も、その資産の管理や税金納入で苦労している、というイメージもあるが。だが”文化”の中断は無かったと言えるのだろう。


定年、あるいは雇用延長が終れば、サラリーマンは仕事がなくなる。そのあとの時間、なにをしたらいいのか、という悩みに皆さんあるようだ。私もある。そこで出てくるのが”趣味”。だが森氏は書く。日本における趣味とはあくまで暇つぶし、娯楽、時間があまって仕方なくやるものである、と。


初めは面白くとも、飽きる。飽きて次々に新しい”趣味=暇つぶし”を探し消費する。結局はむなしくなり、また仕事に戻る、ということがだいぶ多そうだ。

折角生まれて初めて自分の時間を持てたのだ。仕事を通じて社会貢献(直接に社会と面していなくとも、税金を払うことでも貢献している)をしてきたので、自分の為に時間を使い、自分を喜ばせよう、と説かれる。

日本に於ける暇つぶしの意味の趣味ではなく、ここで氏は趣味(Hobby)を”個人研究”と読み替え、自分だけの新しいテーマを見つけて、従来の先人の成果を調べる勉強や参照ではない、自分だけの価値を追求する”研究”を勧められるのである。


こうして考え方を整理して、指摘していただくことは、いままで知らず知らず”日本で働く”中でしみ込んでいる考え方を改めて見直し、考えさせて頂く機会となる。

大変、ありがたいと感じた。まさに、本を読ませて頂く価値、である。真実・事実を分かりやすく伝える、という理系教官であった森氏の手腕も実感する。


タモリの言葉を聞いて、私は”仕事は真面目にやらなければならない”と思い込んでいることからのおかしみを感じていた。だが、タモリの言葉の意味は、本当にそうなのか?はたして仕事以外の時間は、すべて無駄、時間つぶし、余暇、なのだろうか。

仕事以外の時間の重要性、自らにとって大切でエッセンシャルな行動をやるための時間であること、を示そうとされているのではないだろうか。


仕事をすることは、これまたよく書いている言葉、チャップリンの”愛と勇気とサムマネー”のサムマネーを得るために(恒産を持つもの以外)必要である。だが、”サム”なのだ。これは必要十分、の意味であろう。

生きるための手段が、目的となってしまう。金儲けが手段ではなく目的となる。よくあることだ。長い時間、身を粉にして働けば、疲れて本来の意味を忘れてしまっても仕方ない。サムマネーを得た後は、愛と勇気で生きてゆくのだ。


忘れたら、思いだす。あるいは新しく考える。


真の創作は全てがオリジナルでなければ、という、これも特に根拠のない思い込みを私は持っていた。だがたぶんそうではない。先人の努力と結果を参照し、その手段を足掛かりにさせていただき、そこから自身の新しさを見つけてゆく。
殆どの創作は、そのようにして生まれているはずだ。

デューラーの時代、20歳になる前に職人や画家はイタリアなど本場の芸術や文化に触れて学ぶ時間を持ったという。いまでいう”モラトリアム”の時間であろう。日本でモラトリアムというと、なんとなくさぼり、無駄、ボンボン、というような言葉が浮かんでくるが、素晴らしい芸術家はこのような期間、先人の技に触れ、模写などを経て自らの表現を見つけていったのである。そして世間では、よき表現の為にはそうした一見無駄な時間がどうしても必要である、という理解もあったのだろう。

いままさに、家族や子供の為、そして自らの為に働くことがメインであるのなら、将来の私的研究の為の準備(資料の蓄積等)をしておけ、と森氏は説く。時間がなければ、将来の時間に投資する。


素晴らしい森氏の助言をかみしめて、自分はではどうすべきか、ということを考えてゆきたいと思った。

 

(自らの中にやりたいことの萌芽あり、それを見つめて実施せよ、と森さんはおっしゃってますね)

 

時間について。

日没時間が次第に遅くなってきている。つまり、日が長くなってきている。

欧州の冬は長く暗い、というイメージがある。少ない経験であるが、確かに英国の冬は寒さに追い込まれる感じがした。

日の出、日の入りにはいつ見ても心奪われる。空が絶え間なく変化するのがいい。日中はそれほど変化を感じないので。 光、に時間があるのだろうか。もちろん発せられ、進むものだ。変化、ではある。だがそれ以外に感じるこの暖かさは、なんんだろうか。われわれは光によって発生した生命、だからであろうか。

 

時間とは、時とはなんだろうか。

 

鈴木大拙神秘主義」に引かれていた、聖アウグスチヌスの「告白」、11章14節を孫引きする。(段落等は一部変えています)

 

では時とは何か?

もし誰も私に訊ねなければ、私はそれを知っている。

でももし質問者に説明しようとすると、私は知ってはいない。

しかし、私は次のことは自信をもって断言できる。すなわち、もし何も過ぎ去ることがなければ、過ぎ去った時などはないことになろう。

そしてもし、何ものもやって来ないならば、未来などないことになろう。 そしてもし、今何も存在しないならば、現在もないということになろう。

では、過去も、もはやなく、未来もまだ来ていないなら、過去と未来のこれら二つの時はそういうことになるのか?

現在という時は、もしそれが常に今あるがままに留まり、決して過去に移行することがないならば、全くそれは時ではなく、永遠であろう。

もし現在という時が時ではないのに、ひとえに過去に移行するからというだけで、存在を獲得するならば、どうしてわれわれは現在もあるということができるであろうか?

もしそうならば、現在がある理由は、現在が現在でなくなるからだということになろう。

換言すれば、現在が存在しなくなるという差し迫った状態によることなしに、われわれは時が存在するなどということをまともに言うことはできないのである。

 

 時、という概念は、人間が物心つくとすぐに、意識する概念かもしれない。

時が過ぎる。時が経過する。 人間といっしょに生活する犬や猫には、人間としては同じく時を過ごしている、という感覚があるのだろうが、どうやら時間という認識はないようだ。

記憶は、ある。だが、記憶とは”過去の出来事”という形で人間は思うのだろうが、多分犬や猫にはただ”記憶”、覚えていることだけを、指しているようだ。

 

時、を考えることは、消滅、死、永遠を考えることにつながる。

 

龍樹

まず、すでに去ったものは、去らない。未だ去らないものも、去らない。 さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた〈現在去りつつあるもの〉も去らない。

 

→「行為から切り離された主体それ自体の否定」

 

マイスター・エックハルト(1260頃ー1328頃) 神聖ローマ帝国

汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。 神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう。

 

さまざまな叡智が、時を、神を、自分を、考えている。

 

(子供の時、死という言葉さえ忌み嫌っていました。今もいくぶんそうですが、すこしずつ変わってきている感じもあります。すこしずつ、ですが。)

学問と芸術。

学問と芸術は、同系列だったのか!

 

森博嗣さんの”つんつんブラザーズ”を読んでいる。見開き2ページにテーマを絞って記載されている。字数が限定される、という意味では、新聞のコラムのような感触である。

 

その中で、余裕がないと学問も芸術も行こなえない、という真実が書かれていた。まさにその通りである。

 

学問も芸術も、本質的には無駄なことである。無駄なことが大手を振ってできることが文化である。国に財政的に余裕がなければ、これを行えない、それはいままでかりそめにもそうしたことが出来てきた時代を過ごした身にはとても残念なことだ。

 

またまた思いだすのは、チャップリンの”サムマネー”。”武士は食わねど高楊枝”ということばがやせ我慢、できないことの揶揄となりはてたのと反対に、この世のかっこをつけない真実に肉迫する言葉として理解しているのだが、

余裕がない、今の日本で、文学部など廃部にしろ、役に立たない学問は退場だ、という考えが金の回らない政府から出るのは、或る意味しかたがないのだ。

 

だがまて、人は宗教を求めるがごとく、芸術や学問を求めるのだ。森博嗣氏も書かれている。

しかし、人は必ずこの「文化」を復興するだろう。神がいなくなった現代において、それは神殿のような社会の、人々のシンボルであるからだ。

つんつんブラザーズ 森博嗣 P.163

 

大学でできなくても、人は神を求める。つまりは学問を、芸術を、文化を。

 

そんな高尚なものには用はございません、という向きにも、なにかの娯楽は必要だろう。食事がおいしい。TVを1分見た。マンガがオモロイ。

これはすべて、”文化”である。文化に高低はない。見る人間の魂に、高低があるだけだ(劇薬がある、ということ。だが劇薬も”薬”なのだ)。

 

やらされることの、根底には比較がひそんでいる。だからやりたくない。

 

だが、やらされることで、最低限の生存のための、今のこの世でのノウハウを得ることができる。字を読む。日本語をしゃべる。ひとによってそれ以上欲しい技術はいろいろだろう。

 

それを理解したとき、人は学問をはじめて”自分のために”始める。算数?嫌いだが、最低限の知識はやはり必要だ。

 

それが”義務教育”なのだろう。それを超えた部分、いままでにまなんだことの延長戦上であるが、もう生きるための方便という次元を超えた
”学問”。それは文化であり、政府が言う”役に立たない学問”である。

 

算数がとにかく大嫌いであった私だが、例えば大学の理学部にすすむような”算数好き”な人々にとって、算数の世界は、哲学であり、神学であり、芸術でもある、ということを最近やっと感じてきた。

 

知的な、興奮をともなう、或る意味”趣味の”世界であるのだ。それが役に立つ技術に寄与することは勿論多い。だが、”数学好き”な人々はそのために”学問をしている”のではなかったのだ。いままで、数学が嫌いすぎて、(しつこい)わからなかったが。

 

私は、文化が好きだ。例えば独学。例えば、つたない文章を発信すること。自分にとってそれは”文化”だ。

金がなくても、人は必要な文化をなんとかして自分で得ようとする。それは享受と発信、両方のスタイルがあるのだが。

 

しかし、学府が尊敬の上ですきなように自由に存在でき、例えば美術館では入場料は不要、写真撮影、模写も自由(むしろ推奨され、未来の芸術家として激励される)という文化の、なんと豊穣なことだろうか。

 

そんな日本であったのなら、と夢見ている。

 

(まあ、となりの芝生は青くみえる、という面もあるのでしょうが・・・。)

日記とは。

正月三が日。

あっというまに日は過ぎる。

私が日を過ぎるのか、日が私を過ぎてゆくのか。

過ぎる、とはなにか。

 

日記とは過ぎゆく日々を記録しておこう、という行為だと思いますが、誰に対してのものでしょうか。

勿論自分の為、というのが普通でしょうが、過去の自分を未来の自分に伝えるため?記憶というものが不確かなものだ、と思っているからでしょうか。

最近は森博嗣氏のエッセイを良く読んでいます。日々の暮らしが淡々と綴られています。やったことと考えたことがバランスよく並んでいる感じが心地いいのですが、よく読む一番の理由は、私との視点の違いがあるから、でしょうか。

森氏は元名古屋大学助教授、理学博士となると、普通ならもっとも私とは縁遠い方、となるのですが、マンガやイラストを描かれ、私が敬愛する山田章博先生と同じサークルで同人誌を作ってらした、というプロフィールを知ると一気に身近に感じます。

理系、文系と分けるのはどうか、という議論がありますが(私は考えると頭が沸きそうになる算数をある時点からやらなくてよくしてくれたこの仕組みには感謝しかないのですが)、森氏の文章を読んでいて一番楽しいのは、ものごとへの森氏の視点が私とはまったく違う点、なのです。

本が好きで、文章を読むのも書くのも(ある程度)好き、となると、接する文章は私の場合やはり”この書き手は文系だなあ”と感じるものがおおいのです。

思考回路が似ているのか、考え方の方向が自分と似ているなあ、と思うものがおおいです。これが“共感”というものなのか?ですがなんとなく”思考の馴れ合い”というマイナス面も感じていました。

なので、視点が全く違う、いわゆる”鳩豆状態”になってしまう文章は、あまり経験がなく、とても新鮮に感じます。

森氏は、そのエッセイで、本を読む理由は、違う思想を知るためだ、とおっしゃっています。また、頭の中にある考えは、文章にすると死んだ情報となる、ともおっしゃっています。

思想を頭の中において熟成させることの重要性の指摘です。

私は何となく、思想は頭の中にある段階ではまだ未完成で、文章化して可視化することが最終形である、というイメージをもっていました。ですがたとえば森氏のこの視点を知ると、”アウトプット至上主義”で本当にいいのか、という気づきをもらえるわけです。

どちらが正しいか、ではない。新しい、切り口、考え方です。

確かに、例えば絵を描く、という行為、私のスタイルは下描きを日々作り、その中から”次はこれかな”という思いで選んで銅版画化する、というパターンになってきています。

下描きはある程度たまっていますが、描いた順番に版画化しないのがいいのではないか、と最近感じています。

寝かす、という発想はなかったのですが、結果的に版画をやっていないころは、最終形にする手段がなかった、あるいは少なかったのです。

なので結果的には下描きを寝かすことになる。版画を始めたころは、数年前、時には10年近く前の下絵やアイデアを版画化することがありました。

慌てて下描きを作って版画化する。これが基本かなあ、そこには集中力があり、そのことが良いものを生み出す原動力になるのでは、とぼんやりと考えていたのですが、いや、そうでもないかもなあ、という視点です。

寝かすことで、客観的に判断できる。違う感覚で修正や加筆ができる。

そのことがなんだか気持ちいいなあ、と感じていたところに、上記の森氏の視点を得たのです。寝かすこと、思考を頭においておくことも、寝かすことの一種でしょう。

視点が違うことで、その作者、その著作群が気になって追いかけた経験は、わが敬愛する池田晶子さんに対してが最初でしょうか。

なにげなく図書館で手に取ってよんだ週刊誌掲載の短い”哲学エッセイ”。

こ、これはなんだ!!という擬音というかマンガでいう吹き出し(当然まわりは破線というか爆発というか)が頭の中に生まれました。

それからは”鬼のように(→この言い方はもうふるいのかな)”池田さんの著作を追い続けました。至福の、経験でした。

とにかく自分が持っていた考えが、基本的に残念な感じだなあ、と思っていたところへ、まさに啓蒙、きちんといただいたものを消化できているかはともかく、まったく違う視点が堂々と開陳されていたのです。

そう、”堂々”です。”文句があったらいってごらん”。

文字で書けば誤解されるような一言を、池田さんは掲げてらしたと思います。ですが読んでいけばわかる。池田さんは上記の言葉で相手を論破しようとしていない。逆に愛がある。真実を真実として分かち合おう、と実はおっしゃっているのです。

人間同士のくだらない”論戦”などではない。真実が真実を語り合う、これです。それが”文句”であっても、真実なのであればわかりあえる。当然です。

つい池田さんのことを書くと、熱くなってしまいますね。いけないいけない。

森氏の文を読んで、このことを思い出しました。本を読む意味、大切なことを教えていただいた気がしています。

 

「『科学的客観性』と呼ばれるものは、科学者個人の不党派性の産物ではなく、科学的方法の社会的あるいは公共的性格の産物であり、仮に科学者個人の不党派性というものがあるとしたら、それはこの社会的・制度的に組織された科学の客観性の起源ではなく、むしろ帰結である」(Karl Popper, The Open Society and its enemies 2, Princeton University Press, 1961,p.220)。
 

プロジェクトとはなにか。

自分自身にとってのプロジェクトとは、どのようなものだろうか。


愛と勇気とサムマネー。 チャップリン


仕事じゃないんだ、真面目にやれ! タモリ


二つの名言を並べてみた。

チャップリンの言葉は、金、というものを過剰にとらえすぎず、はたまた過少に見過ごすことなく、正面から取り組め、という風に聞こえる。


金の亡者、という。金との距離が取りづらいことを端的に示す、ある末期症状のことだろう。状況に応じ、生きるためのよすが、手段のことを、過剰にではなく的確に考えねばならない。


そのための手段が”仕事”である。楽しい、楽しくないは、本質的には無関係だ。楽しい仕事がある。楽しくない仕事もある。たまたま楽しい仕事で着実に生きる手段が得られるのであれば、いいことだ。ただ、趣味を仕事にすることはどうか。ここが間違いどころだ。趣味を仕事にすれば、趣味を失ってしまうのだろう。


タモリ、という人について、嫌いではないが、特に好き、というわけではなかった。だが、だれかが書かれた文章経由で上記のタモリの言葉を聞いたとき、タモリという人の凄さを感じた。


タモリチャップリンの言葉のあと、サムマネーがなんとか確保できた時、あるいは後、のことを喝破しているのだ(私的理解です)。


いかに楽しくても、普通は仕事は遊びにはならない。楽しくなければ仕事は仕事だ。定年、という仕組みを見ても、仕事は一生添い遂げらえるものでもない。


自営業には定年がない、ということはいえるだろう。だが人に決められる(あるいはルールに決められる)のが定年であるが、自ら廃業を決めるのが自営業での定年にあたるのだろう。


定年、あるいは廃業。そのあとにのこるものこそ”仕事じゃない”ものだ。
そしてそれは、必ずしも定年や廃業の後にしかこないもの、というわけでもないだろう。幼少期に、始まることさえ、あるだろう。


それは”自分の、自分にとっての、自分のためだけの”プロジェクト、といってもいいかもしれない。誰に言い訳する必要もない、やりたいように、自分ルールで、やればいい。


そこを、タモリは言っているのではないか。仕事じゃないんだ、と。


そこをつい、忘れてしまう。それをやることに、罪悪感が出る(言い訳、ともいう)。
世間の思いこみの逆張り、という体を敢えて取り、それでいて不意をうつ、そうだ、その通りだ、でもなぜかわすれていた、気づかないようにされていた(誰に?)、という形で、心に、魂に、すこしの諧謔味と共に、到る。


そんなことばである。


喜劇、を演じる人たちは、裏では泣いて骨身を削って、生を見据えているだろう。
そのことをもまた、この言葉たちは想起させてくれる。


(二つの言葉とも、口につぶやいてみると、元気が出てくる気がします。)

アリスと電子書籍。

要するにアリスは、ひとりの孤独な男の心のレンズに、逆さまに映った少女のイメージだったのだろう。


アリス あるいはナルシストの心のレンズ 澁澤龍彦  1973 アリスの絵本 牧神社より

これからの創作物に、旧いや新しいは、従来のようにはなくなるだろう。


電子出版が書籍のスタンダードになると、本の世界では従来よりも”プロ”と”アマ”の差異がなくなってくるだろう。もちろん技術の差はある。だがぎりぎりプロとぎりぎりアマの差、が、電子書籍という仕組みのなかであまりなくなる。つまりは”お試しで電子書籍を出す”のハードルが(たぶん)自主出版より金銭的に低い。


従来は、出版社があった。出版社の目利きが、才能がある、とみなさなければほぼプロにはなれなかった。これはほかのクリエイティブな仕事でも同じだ。アイドル、俳優、映像配信者。従来は事務所に所属する、という仕組みが中心であったろうが、いまは”スマホ一つで”できる。


ただ、厳しいのはそれらの”創作物”が従来はほぼその時代に”物理的に存在する”ものとその良さを競えばよかったのだが、今はデータで閲覧できる全ての成果物との比較となる点だ。従来あった国、地域別の癖やテイストも薄れてくる。言葉も翻訳により簡単になってきた(とりあえず大意をGOOGLE翻訳でつかむ)。


全人類に向け、全歴史と比して、空前絶後の新しさを求める作業になる。ただ、母数も、増える。


変化、である。どちらがいい、悪いというより、変化しているのだ。


紙の本の印刷部数が減っているという。出版社は物流費、在庫保管料など減るので電子書籍の方が実は楽なのだろう。ただ、紙の本の流通(販売含め)に関わる業界が問題だ。これは写真とも似ている。皆が写真を印刷していたが、今は基本データである。データもクラウドに、ある。出版社は、川下(この表現は微妙だが)の仕組みに忖度し、あまりそのことをおおっぴらには言えないだろう。


今後は本が絶版で読めない、ということがなくなる(著作権との調整は必要=過去作)。後の世代の感覚だと”絶版って何?”となるのだろう。


新作は、紙の時代よりももっと多くの著作と、自然に比較されるものとなる。


12月7日の読売新聞コラムで、奥深い僧院で、スマホ中毒で目が真っ赤になった少年僧とあった、というような記事があった(うろ覚えです)。奥深い僧院では、スマホに接してほしくない、というのは接している側から言うべきではない。知らないことが幸せかもしれないが、知ることが可能であるなら知ったうえで判断する同士の感想で、あるべきだ。そのことを嘆くのも、持つものが持たざる者を、気が付かずに憐れんでいる姿である。問題はそのことに気づかないこと、裏に潜む意地の悪い優越感、なのではないか。”持たない姿が美しい”?


そのことはいまはいい。だが、これはつまり、すべての本は、すべての映像は、すべての写真は、その到達する母数を略人類すべてとした(あるいはしつつある)、ということだ。


冒頭にアリスに関する澁澤龍彦の言葉を載せた。英国の少女が居て、孤独な牧師兼数学教師がいて、個人的な物語のやりとりをした。


そのことが本となり、日本人の澁澤の心になんらかの印象をのこし、そしてそのことをこうしてブログで考えている。このことはつまりは、すべては繋がっている、すべては一である、ということの、一環であり、証左でも、あるのだろう。


世界は繋がり、意識がつながる。もともとの融合へと、世界は進んでいる。


(アリス好きとしては、アリスのことが共有され、クリエイトの源の一つであることは、楽しいことだと、思います)