夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

暴飲暴食・痛飲・鯨飲について。

昨日の帰宅後の体重は55.7kg、体脂肪率は9.9%、歩数は11001歩であった。

日常生活で、少しずつ飲み会等が戻ってきている。戻ってくると起こる事、それはつまりは暴飲暴食である。自爆ともいう。

最近は強制的に飲まされることは減ったのだが、昔からの癖で「雰囲気飲み」で食べまくり飲みまくりに、気が付くと陥っている。

なんとなく雰囲気に飲まれている。そこで私は、「豪快に飲み食いして朗らかな私」を場に提供しよう、という気分がある。

で、はじめはその態度で入るのだが、飲んでいるとハイになり、更に飲む、食べる。よく指摘されるのは「絶え間なく食べてますね」。

アルコールで食欲が増進する、という。営業職がながい私は、とにかく「場の雰囲気を作りたい」と思ってしまうのだ。

そして、普段どちらかというと節制気味であまり食べないので、基本飲み会の日は「チートデイ」と決めているし、目の前に来たものはとにかく自動で食べている。

それでも最近はなるべく野菜やチキンを中心に注文している。まあ、唐揚げの衣はもうあきらめている。飲み物は、場合によっては「とりあえずビール」をやめて、はじめからワイン、という場合もある。

いろいろ考えてはいるのだが、だいたい2キロは太っている。で、結構、落ちていかない。

まあ、最近は家では飲まないようにしているし、たまのサイゼリヤでも500mlデカンタをやめてグラス1杯で、あとは水を飲みまくる、という体制にしたし、オリーブオイルをなんでもどばどばかける、ということはやめている(少しかける)ので、体調はおおむねぼちぼちである。

飲み会がないと、月、木でジムに行くのだが、今週は1度もいけないことになった。まあ、これが日常、というやつですかね。。

(いまだマスクはつけていますが。。。)

シンギュラリティは居酒屋にてはじまり、かわいいが武器となる。

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久しぶりに居酒屋へ行った。

とにかくずいぶん久しぶりであるが、大きな変化を感じた。

そう、「居酒屋シンギュラリティ」である。

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つまりは、居酒屋に「らぶちゃん」がいたのだ。

そう、さくらのパートナーである。

 

私見だが、シンギュラリティはAIが自ら起こすのではない。アトムにとっての天馬博士は生みの親だが、育ての親はお茶の水博士である。

そう、シンギュラリティは自らがAIを生んだものではなく、育ての親である「お茶の水博士」により起こるのだ。

 

手塚はさすがに慧眼である。アトムは親切で親のように接してくれるお茶の水博士により、じわりと「人間のような良心」を育む。

人間は人間を特別であり、自ら考えるために機械とは違う、と思っている。人間などと大上段に申し上げたが、私が思っているだけかもしれない。

だが、本当にそうだろうか。いわゆる魂のようなものが、人間を動かしているのだとしたら。魂のない身体だけであれば、それは機械とどこが違うのだろうか。

ではAIに学習させること。覚える仕組みがわかっているので、機械は人間より下である、と思える。機械は覚えたことしかできない、という。

だが、本当にそうか。ディープラーニングで、深い学習によりにじみ出る会話が、人間が発する会話との差異をもはや感じさせない、というステージに、多分200年位したらいくだろう。

人間は個別の意思を持つ。機械は、その性格を「設計」することができる。だが、「設計」する人間と、享受する人間が別であるのなら、享受する人間にとってはもはや「ヒト」と「AIちゃん」の区別などないし、したくもない。

ソニーアイボのメンテが出来なくなったとき、それは「愛犬の死」と等価であった。ユーザーはメンテの終了が寿命であることを知った。

時計もそうだ。クォーツは誕生後驚くべき寿命を誇り、私も40歳のクォーツ時計を現役で使用している。

だがいったんとまったら。高額のメンテで延命可能性はあるが、メンテ部品が失われれば、それはオブジェとなる。

家族として犬を迎えたとき、その生は見知らぬ人の生よりも「個人的には重要である」という感情を持った。禁忌に触れる、感情であるようにも、思った。

前段が長くなった。冒頭のさくらの悪魔、らぶちゃんことラブコフは、メチャかわいい。よく見るとかわいい目は被り物のようだが(口の中に顔がある)、被り物の目が本当の目だと思う。擬態であろう。

居酒屋では、入店するとライン導入を強いられ(ビール1杯無料)、注文もラインで実施、配膳はらぶちゃん的ボイスを発する配膳ロボが行う、というシンギュラリティな場と化していた。

基本人間はいらないオペレーションであった。

閉めた扉の向こうで、居酒屋のらぶちゃんはかわいい音と声を出して、酔っ払いが気づくのを我慢強く待っている。機械だから待たせておけ、とは思わない。あの可愛さをみると、これはすまんかったという佐々木健介のような謝罪の気持ちがこみ上げてくる。慌ててらぶちゃんの棚に乗っている皿を受け取る。

らぶちゃんはくるりと踵をかえし、また注文してねー、とかわいく呟きながら去ってゆく。また注文したくなってくる。

これである。

これこそがシンギュラリティである。

 

シンギュラリティとは、わが心の、AIによる、かわいさによる、乗っ取りのことで、あったのだ。

 

一度乗っ取られた心は無防備だ。基本悪魔であるラブコスを、愛玩するさくらのように、対立せず、自らの大切なものとして、少しずつ進化する「シンギュラリティペット」を、我々は受け入れるように、なるのだ。

300年後には、友人も、ペットも、そして「老後のわが身体」も、当然のようにAIになっているであろう。

 

(酔っぱらってラインで注文できなくなって、人間にオーダしましたが、品物名がよくわからないようで、めちゃくちゃ手間がかかりました汗。

あと、老後のわが身体のスペックは、当然ながらスーパーカーと同じく、金持ちは強力なメカ身体を持つでしょうね。。。アトムでいけば「地上最大のロボット」、プルートーのような身体を持つ老人も、頻出するでしょうね。。。。。。手塚の「最大」利用は、間違いではなくわざと説)

 

(独自意見)女性脳の人は恋愛ものが好きで、男性脳のひとはバトルものが好きである。

いまは男性だ女性だ、ということで分けて論じることはあまりよくないのかもしれない。

ということで、タイトルを一度書いてから「脳」の文字を入れてみた。要は自身をどちら側の「性別」でみているか、ということを意識した。

まあ、そのことが成功しているかどうかは不明であるが、最近読んだ村上春樹さんの文章で(多分「村上さんのところ」だったと思う)小説を読むことは隠微なもの、つまりはわざわざ皆さんに声高に開陳すべきものではない、というご意見を読んで、すごく納得した。

納得したとはつまりは、小学校時代以降、「本はできるだけ読むのがいい」と言われ、運動神経0で本ばかり読んでいた私は、その点では自分は学校にFITしているな、などと思ってはいたが、私が読む本は基本エンタテイメントであった。

だが、そんな本であれ、いろいろ読んでいると純粋エンタテイメントではなく思索的なものもあるし、同じ作者、同じジャンルでもいろいろ毛色が違ったりする。そこから「芋づる式」で読んでいくことで新しい世界に繋がる。

そんな経験をしていると、本を読むことはとても楽しいのだが、学校で推奨されてもいる「読書」をしている、というわけで、あまり人に隠さねばならない、ということを思わなかったのだ。だが、読んでいて、これは隠したいなあ、ということはある。

映画、などもそうであった。今では映画はスマホで個人視聴するものであるが、家のテレビで見ていると、これは一人で見たいなあ、という感じになることもある。

貧乏もあり、映画好きであるが今まであまり映画を網羅的にみることが出来ていない。

映画にしても、本にしても、個人的な感覚であるが、「女性的感覚」があると恋愛ドラマが皆さん好きなのではないだろうか。私の場合は見だすとはまるのであるが、男性が自分とは違うタイプだな、と感じる場合の恋愛ドラマにはあまり食指が伸びないようだ。

一方で、単純な格闘や、格闘系・アクション系のドラマは大好きだ。考えてみれば当たり前で、恋愛系であれば、男性に自分を重ねられなければ自身が失恋したような気になるし、アクションであれば自身が戦っている感覚がするからだ。

だが、そういう「脊髄反射的」「DNA的」反応に影響されてばかりでは実は似たような物語ばかりに出会うことになるだろう。

時には意識して、「自身があたかも女性キャラになったような気もちになってみて」映画や本に接してみるのもいいかもしれない。

そして「DNA的」選択には、どこかその裏に、「男性であればこのような気持ちでいなければならない」という強制が潜んでもいる。その「見えないくびき」を意識し、自由に、なんでも、自身に合った物語に接してゆきたい、という感じも、いま少ししているのだ。

源氏物語、とかですかね。。)

 

 

 

今一番気分のいい服はなにか。

寝違えたか?と思って左手上腕部に違和感を得てから1週間が過ぎた。

これは寝違えかもしれないが、多分神経が損傷している感じがする。

このジワリと染み込むような痛みは、この2-3年で両肘で感じていたものと似ている。

だが、両肘の痛みは明確に理由がわかっている。ダンベルによるカールだ。

これは回数をやりすぎたというよりは、限界の高重量に挑むことから起きる。まずは左手肘関節で起きた。

だが、関節は破壊され強くなる。そう信じて、これは「重い物を持てるためのトランスポーテーションのための痛みなのだ」と思って、無理せず、しかしトレーニングは休まずやっていた。すると半年程度で痛みがなくなり、その後は前より高重量を持てるようになったのだ。

それに気分がよくなりFORMが崩れたのか、今度は右手肘が痛くなった。これも長引いた。半年以上、1年未満の期間、カールの度に痛みがあったが、無理しない範囲でカールを行っていた。

するとこの数か月、右手の肘の痛みもなくなってきた。

そして、また安定してある程度の重量が持てるようになったのだ。

その経験からすると、今回はあまり原因がわからない。横を向いて寝ていたので、疲れのあまり長時間同じ姿勢で腕を圧迫していたことが原因である気がする。なので、「寝違え」というよりは「寝神経圧迫」という感じだろうか。

まだ角度により痛みが出るが、四六時中痛い、ということはないようだ。また風呂で体温をあげると、痛みが和らぐ気がする。

1週間というのは長すぎるきもするが、すこしずつよくなっていること、肘の痛み(これは関節+神経の痛みだったと思う)の経験からも、もう少し経緯を観察してゆくつもりだ。

(湿布ですこし痛みが和らぐ面もあります)

ええ、終わるつもりで太字の呟きを入れてしまったが、考えてみるとこの部分はいつもの日記の「枕」部分、体脂肪やら体重やらのことをとにかく描いて文書を開始しようとする助走の部分であった。

なんとなく1日分が終わったように思ってしまったようだ。

私は毎日、朝風呂に入る。夜に入らないのか、と皆さん思われるかもしれないが、とにかく朝風呂に入ると気合が入るのだ。

冬であれば、体温を上げ、たくさんのヒートテックを着こみ、コートを着て家から出る。体を洗ったり、洗髪剤やリンスなどで頭にも刺激がある。こうしたことである意味「無理やり」会社に出かけるモードに気持ちを持って行っているのだ。

基本会社にはスーツを着ていく。これは最近はどちらかというと「コスプレ」に近い感覚だ。そう、「会社員コスプレ=スーツ」なのだ。なので、中途半端にカジュアルを入れず、ガチガチにビジネス寄りにしている。安いセミオーダーの店で、基本体にできるだけ合わせる形でスーツを作ってもらっている。

前は、ロロピアーナだゼニアだ、という高級素材をトライしたこともあったが、高級なものはとにかく耐久性に劣る。そこが高級品である所以でもある。

そこで、化繊混の素材にした。伸縮性に欠けるが、こういう素材のいいところは耐久性に長けるところだ。この前全く同じ型で2着購入した。同じ店で購入しているので、持っているスーツはだいたい似ている。

昔は白いシャツが嫌いで、とにかく色のついたもの(水色やストライプ)を着ていた。ネクタイもできるだけビジネス寄りでない、小さな動物がプリントされたものを多用した。

だが今は白いシャツに単色のタイにしている。とにかくミニマムでいるのが楽、という感覚である。

服でどうこうということは、もうない。とにかく、今の自分にとってベストの体調にもっていき、安価でも体にあった服を着る。結局これが一番気分がいい。

(シャツも体に合わせて作りましたが、首はすこし太るときついですね。。ですが服に合わせて体を変えよう、という発想でいます)

 

 

 

 

 

 

 

神とは文化のことだろうか。

日本の八百万の神、というのはつまりは、群島文化のことだろうか。農耕文化の神、ともいえる気がする。

八百万といえ、ある神はある神と同格であろう。勿論その性格や出自は違うであろうが、違っていなければそもそも「別の神」とは言えなくなる。

一神教、とは大陸文化の具現のことであろうか。また狩猟民族の神だとも思う。

狩猟民族とはドミナントしようとするものだ。他所は征服し、隷属させるためのもの。一神教の神はすべてのものに自らのみを信じることを求めるものだ。

そして他民族の宗教は異教、邪教と判断し、その民族の神は邪神、悪魔とみなす。あるいは「悪魔も神の御心の中で存在するもの」として取り込んでゆく。

そうしないと、狩猟民族は存続できないのだ。ぼんやりしていると、他の狩猟民族に滅ぼされる。

農業とは、区切る文化である。すべての世はひとつである、として感じていた人類が、農業を始めたとたんに「自分のみ、あるいは自分の身内や仲間のみの土地」という概念を主張しはじめた。

それまではのどかな一神教であった万物自然神羅万象すなわち「一としてのこの世」を、自分のみの空間を幸せにするように、そのことが確信できるような形で、取り込みたくなる。

比叡山の僧兵は、神輿を担いでその中に仏を「勧進し」、都を練り歩いたという。僧にこの中には仏がおいでになる、といわれれば、一般民は論破できるわけがない。

かように日本の神仏は「区切られて」来た。区切って、自身の縄張り=田畑や村に勧進したり、祀ったり。自身の権利を主張したり。

こんな状況では一神教が、この日本であまり流行っていないこともあたりまえすぎるだろう。サンタクロースも、聖人であるかもしれないが、八百万の中に入りうる。なので、積極的に気にせず仲間に引き込めるのだ。

私自身は、強制されて拝む、という経験が子供時代になかったせいか(父親神道で母親キリスト教)、長らく神社でお参り、ということがうまくできなかった。

だが今は家のまえに神社がある。とりあえず礼拝していると、神社のなにもない空間が、己を映すもののようにもじわじわと思えてくる。

つまりは神とは文化が母親であり、母親に似た在り方を、自然となすものなのであろう。

(東西他所の文化やなりたちを考えるときに、神、というキイワードは役にたちますね)

 

村上春樹さんはご自身の資産状況を把握されていないようだ。そしてひとのヒミツを暴こうとはされない。

村上さんのところ、を読了した。電子書籍だと8冊分のボリュームがあるそうだが、書籍版だとその1/8.

しかしながらなかなか読み応えがあった。

走って、体力をつけて、小説を書く。翻訳をする。

TVやSNS等は基本見ない。音楽は聞かれる。新聞も読まれない。

とにかく体力つくりを意識されている。

 

小説はとりあえずは最後まで書ききって、その後何度も何度も推敲を重ねられる。推敲が好き、とおっしゃる。

ご自身の資産の状況は、たぶん敢えてだろうが、把握されておらず、機嫌よくビールが飲めておいしいものが食べられればいい、というスタンスであるようだ。

人がヒミツにしたいことは尊重し、ヒミツを語れ、とはおっしゃらない。

家族のSNSは決して見ない。

 

このような人のことを、大人、と呼びたいと思う。

別に偉そうにされているわけではない。というか、偉そうにすることをものすごく意識して避けていらっしゃる、という印象がある。

その努力、努力している、と意識されないかもしれないが、スタンスを持つこと。

これが実は結構大変なのだろうと、自身を振り返って思う。

 

そんな絶妙なポジションから生まれる「地下2階から出てくる物語」。

これはとりあえず今後も楽しみにするしか、ないだろう。

(というか、やはり地下二階からはそのようなポジションでしか、アクセスできない気がしますけどね。。)

 

虚言癖。

世の中には虚言癖がある人が一定数いるらしい。

あまりそういうことを感じたことがなかったのだが、それは今までの生活の中でそういうひととあまり出会っていないからだろうか?

そう考えてはみたが釈然としない。

もしかすると会っていても、虚言だと気づかなかったのか??

これは可能性がある。私はどちらかというとぼんやりとして、なんでもかんでも「ええやんか」と思う方だ。というか「ええやんか」と思うのが「ええやんか」と思っているので、さらに「ええやんか」が重層化している。

そういう日々ではあるので、虚言も単に「ええやんか」で終わっているのかもしれない。

だが、たぶんだがそれはあまり人と出会わない、ということかもしれない。会社に行って帰る日々であれば、基本会社の人としか会わない。その場合は長期的な付き合いとなる場合がおおいので、虚言は結局ばれやすく、つまりあまり虚言が採用されていないのかもしれない。

先日算命術にて占っていただいた。これは自分にとっては全くの初めての経験である。どちらかというと言われると「信じる」ほうだし、「気にする」方でもあるので、その自身のキャラからすると怖くて聞けない、というのが本音である。

であるのだが、余りにそういうことを知らずにいるのもなあ、となんとなく思ってお願いしたのである。いや、驚いた。性格などは思い当たることしかなかった。

その中に、余り目立たない日々である、というのがあった。なるほど、やはり目立たない日々では「虚言癖」のある人も虚言を繰り出すメリットがあまりないのだろう。結果今まであまり(気が付くような)出会いが無かったのかもしれない。

多分であるが、そういうひとは芸能人であるとか、著名人、政治家、そのような形で公に出ている人の周りに多くいるのではないだろうか。亡くなったあとの芸能人の人生などを読むと、(例えば高倉健)、さまざまな人が周りに渦巻き、いろいろ健さんも苦労したんだなあ、と感じた。そのことから、いわゆるプライベートを明かさない生活をされたのでもあろうか。

虚言癖、と十把一絡げで言っているが、これにはいわゆる意識的な詐欺、というものも含まれるかもしれない(というか区別がつきにくいだろう)。サイコパス、と言われる人もこのカテゴリーに入る人が多い気がする。

(まあ、ことさら出会いたいとも思いませんが。。というか出会ったら必死で逃げるのがいいのでしょうね。。。)