夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

9月20日 発想と発明。シチズンフジツボダイバー復刻を入手したことなど。

時計を購入した。

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どうやら私は時計を買うのが癖になっていて、あまり生活費に余裕はないのだが、飲み会や外食を減らしてひねり出した資金で時計を買っている。

 

まあ、BOOKOFFヤフオクなどがほとんどだ。新品を買うことはほとんどない。

 

東京にやって来て、生活を今までの通りに行っていると生活費が足りない!ということを、どうだろうか、1年位してやっとしみじみ思った。

 

で、飲み会や昼の外食をできるだけやめるようにした。

まあ、すこし運動不足なので、体重調整上は丁度いい。

 

で、毎月5000円ずつを毎月の生活費振り分けの時に”時計費用”として積み立てることにした。

で、欲しい時計が2-3本あった。

 

なかなか積みあがらなかったが、何とか先月42000円ほど溜まり、2022年8月19日発売のシチズン通称チャレンジダイバー、あるいはフジツボダイバーの復刻をヤフオクで探し出すようになった。

 

ヤフオクは落札履歴が見られるので、当該機を見て見てみると4万をちょっと切るぐらいが再安値だろうか。

だが、球数が潤沢なわけではなく、最近の落札では安くて45000円位。

 

ちょっと足りない。

 

私は昔から古着古本古時計にまったく拘りが無い。ただただ安ければ正義、という感覚だ。

ここは人によるだろう。中古の家なんてとんでもない、家は新築でないとね、という感覚もあるだろう。

概して日本人の感覚では人の使ったものは“穢れ”がある、というのが根強いように思う(誰が使ったかわからないものは気持ちわるい、という感覚か)。

 

なので、中古の家や車がいやな人は結構な割合でいるだろう。だが例えば地震がなく、石造りなどの家も多い欧州都市部などでは、そもそも新築の家自体が少ない。

パリオリンピックで、選手宿舎にエアコンがないことが問題になったが、一般家庭で上記のように昔からの家が多ければ、新しくエアコンを設置することも困難だ。

 

あと地震が多く、木造の家の耐用年数の問題もある。シロアリなども面倒だ。

 

私の場合は、そういう意識を皆さんが持てばもつほど、一般の中古品の価格が上がりにくいのでWELCOMEだ。だが最近は、購入時からメルカリで売ることを想定している人も増えているという感触もある。

 

もう一つ、中古だとそもそもの製造者に金が行かない、という問題もある。ここは結構微妙な問題で、ブックオフで本をそろえた、という人に、漫画作者が”オマエはファンではない”となじった問題なども思い出す。

 

時計もそうで、基本中古購入では製造者への還元はない。だがまあ、中古で流通させることで購入意欲が湧く層もあろうから、販売絶対数の増加はメーカーにとってまったくメリットがないわけでもないだろう。

 

まあ、そんなことをつらつら考えながらだが、私はヤフオクでお目当ての品を捜すのだ。

あとはヤフオクでは業者の入札も多いようだ。購入履歴が何万とあるのはそうだろう。今は日本のセミアンティークウォッチをベトナム等東南アジアで売っているようなケースもありそうだ。

 

なので、お目当ての品が出ても、競合者が明らかに業者であれば、あまり深追いしないようにしている。向こうは商売、こちらは単なる趣味。資金力もなく基本太刀打ちできるわけがないではないか。

 

そんなこんなでちょこちょこ入札して惨敗、という日々がしばらく続いた。

手元資金は42000円だが、なんだかんだで浮いた5000円を足して47000円位まで入札するようになった。

 

落札ではだいたい2番札、惜しいところで”業者筋(個人の想定です)”に負けていたが、どうやらそういった業者(入札件数0件、というパターンもあるようだ)らしき人から連絡が無い、ということで2番札の私に連絡を頂いた。

 

丁度別件で入札中だったが、そこも負けそうだったので、最終的にはその方から購入した。約47000円であった。

 

この時計、現状では70000円ちょっとが新品最低価格なので、まだまだ人気があるイメージだ。あまり人気がなかったら、半値位にはなるはずなのだ。

 

で、8月19日に入手。この機は2022年8月19日発売だったので、丁度2年後に我が手にしたことになる。

 

サイズ感はロレックスサブマリナーと似ているようで(旧型?)、41mm径、厚さ12.3mm。ロレックスは41mm、12.5mmなのでほぼ同じ。ラバー(ウレタン)バンド仕様で、昨日重量を測ったところ70gであった。公称75gだった気がするので、個体差??チタンで軽い。

 

嬉しくて頻繁に装着している。まあ、こうして買えるうちは楽しく買って行こうと思っている。

 

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発明とは、無益な組み合わせを排除して、ほんのわずかしかない有用な組み合わせを作ることである。発明とは見抜くことであり、選択することなのだ。

 

アンリ・ポワンカレ

 

「学習+記憶」の研究が教えるように、あなたの発想の元になるのは、あなたが学習したことの蓄積だけなのだ。

 

シーナ・アイエンガー    THINK BIGGER 「最高の発想」を生む方法

 


学校での勉強、というものは、”学ばされている”ころや、”受験のため”と思ってやっていたころは、なんて無駄な、と思っていたものだが、こどもはすべて違うわけであり、どの子供にどの知識が最適か、ということはわからないわけである。

 

それで広く浅く知識の”さわり”を与えることで、自然に自分でやりたい項目を見つけることがあるだろう。

 

今となっては、あれはけっこうありがたかった、などとも思うところだ。

 

SNSの弊害がいろいろ言われているのだが、個人的にはインスタもXも主に視覚的な情報収集に使っている。見ているものに関連したお勧めが来るので、それほどトンデモコンテンツが来ない感じだ(猫とか時計ばかり来る(笑))。

 

昔はなんでも見ていたので、結構カオスであったが。

 

特に海外の方が琴線に触れた画像などをUPされると、日本では見たことがないようなものも見ることができる。そうしたものにインスパイアされることも多いのだ。

 

まさに「学習と記憶」。

 

そこから「発想」がジワリと浮かび来ることを、実感しているのだ。

 

(昔は情報は本一択でしたが、広がりましたね。。広がりすぎて消化できるのか、という懸念がありますが)

 

 

 

 

 









 

 

 

 

 

 

 

 

9月19日 健康診断結果を入手。

今朝の体重65KG、体脂肪11.2%。

 

日常の食事スタイルに戻って来た。

昨日は版画工房に行って、道すがら100円ローソンでキャベツとバナナ、玉子などを購入。帰り道で納豆、もやし、高野豆腐、切干大根を購入。キャベツが買えたのはありがたい。切干大根や高野豆腐は、賞味期限を気にせずいられるのがいい。

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バナナはよくわからないカレーに入れるというタイプが安かったので買ってみた。

 

どうやらカルダバという調理用タイプのようで、通常のバナナのようには食べないようだ。油で揚げてバナナチップスにしたり、バターで炒めて砂糖をまぶすという食べ方のようだ。黄色く熟していれば生食もできるようなので、今は緑色であったがすこし置いておくことにしよう。

アブラで炒めてや、バターで炒めてというのは、私の自炊力(蒸すだけ(笑))ではちょっとハードルが高いようなので。

 

まあ、新しい食材にトライできるのは面白いことだ。

 

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会社の人間ドックの結果が出た。

 

継続的にイマイチなところはイマイチのまま。

まずは尿酸。7.9mg/dlであった。

基準値は2.1から7とのことだ。

 

2021年7月は7.4、2022年5月は8.1、2023年11月は6.5(基準値内)、そして今回2024年5月が7.9である。

 

尿酸値の上昇は、水分不足、飲酒過多、プリン体摂取過剰、運動不足が原因となることがあるという。

 

2022年に8.1を記録して、ちょっと焦って水を飲みまくり、2023年に基準値内となってちょっと安心してしまったところもあるだろう。

 

飲酒やプリン体は抑えているし、水も推定1.5lは飲んでいる気はしているのだが、2023年のように机にドーンと2Lの水ペットを置いて飲みまくる、という風にはしていなかった。また飲みまくるようにしたい。

 

あと運動については、最近歩数は8000歩たたき出すのがぎりぎりという感じなので、やはりできるだけ10000歩を目指すようにしたい。

 

次は血糖値。

 

HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)が5.7と基準値5.5を超えている。

 

HbA1c値は採血時から過去1-2か月の血糖値の変動を反映しているという。

血糖値が高いと血管が傷つき、修復しないと糖尿病などの病態へと進んでしまう。

 

ヘモグロビンは血液中の赤血球に含まれる成分。全身に酸素を運ぶ働きを持つ。

このヘモグロビンが、血中の糖分と結合した割合を示すのがこのHbA1cということだ。

 

糖分は血糖値が高いほどヘモグロビンと結合しやすく、一度結合するとヘモグロビンの寿命120日程度離れないということで、直近1-2か月の平均血糖値を示す、ということだ。

 

私は最近基本ほとんど炭水化物摂っていないのだが、チートデイと称してたまの外食時には大盛りがデフォルトになってしまっている。野菜を先に食べ、アルコールを飲みすぎない、間食はしない、ということを徹底していきたい。

 

たまのチートデイで、多分血糖値が爆上がりしているだろうから、血管にはよくないはずだ。

 

今度のチートデイは、肉にしよう。

 

あとはLDLコレステロール値が158であった。

 

基準では119以下、昨年は114、一昨年は121だったので、急に上がった感じである。

直前に卵を一日3個くらい食べていたので、これが効いたのだろうか。それ以外に特に理由が思いつかないので、最近は1日2個にしている。

 

あとはいつも悪い血清クレアチニン。1.33であった。

腎臓については一度病院に行った方がいいかもしれない。前に一度行ったのだが。。

 

(いろいろ心配ですね。。やはり食事、運動、ストレスに気を付けていきたいと思います)

 

 

 

9月18日 すきなものの中に必ず私はいる。 河井寛次郎

私は陶芸に関してはほとんど知識が無い。

 

器などは好きなはずだが。。民芸や侘び寂びというような境地も好きだ。

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まあ、機会が無かったのだろう。身近でそういったものに接することがなかった。

どちらかというと西洋陶磁器か。

 

陶芸は個人技であろう。西洋ものは集団によるプロダクツ、という印象だ。

 

 

版画を創る人の中に、陶芸をやる人が案外多い。

 

絵付け、というアプローチもある。

 

 

だが、私はそういう立体であれば、むしろ陶器製のドールに惹かれる。

版画をやるか、四谷シモンさんの人形教室に行くか、迷ったものだ。

 

 

河井寛次郎氏がいうひとこと、そのあたりでズーンと来た。

 

すきなものの中に私がいるのであれば、

すきなものを見続けることで、私は私をリフレインで見ることが、

できるだろう。

 

(すきなものは自分の一部のような気も、しますね)

9月17日 新しいことを意識してするのがいいようだ。

昔からなぜか幻想文学が好きである。

 

まあ、自己評価としては、現実逃避がしたくて、脳内で逃避しやすいものとして採用したのだろうと思っている。f:id:mamezouya:20240917055717j:image
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なので、エブリデイ・マジック系よりは、ハイファンタジーの方が気持ちいい。

ハリポタより指輪物語

 

まあ、外国の話であれば、ハイ・ファンタジー的に読めるので、ドリトル先生などは幼少期から一番好きな物語である。

 

動物好きで、人間嫌いの気あり。

動物であれば、まあ、だいたいはOK。ヒルゲジゲジはちょっと嫌だが。。

 

子供時代は、自分もこどものくせに、子供の理不尽さが本当に苦手だなあ、と思っていた。小学校2年生位??

 

運動神経がさっぱりだったので、その分家に閉じこもって本を読んでいた所為で、精神年齢的には部分的に高かったかもしれない。まあ、どうしようもなく幼い部分も多かったが。

 

まあ、こどもというのは、個人個人で発達の凸凹が当然あるわけで。

 

なので未だに”幻想色強めの版画”などを創っているのだろう。

考えてみると、現実っぽい絵はほとんど描くことがない。

 

まあ、さっぱり描く気がしないだけだが。。写生などは苦手である。

 

 

最近蒐集した言葉や短歌たち。再掲だが挙げてみる。

 

わが椅子の 背中にとまる 白天使 汝友好 ならざる者よ   葛原妙子

 

エロティシズムは、 死に至るまでの 生の称揚である   ジョルジョ・バタイユ

 

月の夜や 何とはなしに 眺むれば わがたましひの 羽の音する 片山廣子

 

昔は、小説のような形が好きだったが、

 

最近はこうした断片や短歌の中に、凝縮された美意識がより色濃く存在できる、という気もしている。

 

あるいは、動画より静止画。

 

 

(タイトル回収。自身にとってなにか新しい試みを捜して行うことは重要でしょう。今日は石鹸で体を洗い、その後同じ石鹸でスポンジで湯舟を洗いました。。←洗ってなかったんかい!!!)

 

 

9月16日  自分事、他人事。

今朝の体重65.7kg、体脂肪12.2%。昨晩66.2kg、体脂肪10.1%。

 

昨日は版画工房に行ったが、急な雨で工房でカッパを借りた。

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最近は1時間前には天気予報ではまったく気配が無かった豪雨が、突然降ることが多い。

昨日は天気予報を見て傘を置いて出たが、失敗であった。だが天気予報を信じすぎない、ということの学びとなった。よきかな。

 

体重はなんとなく落ちつつあるが、食べているものを落ち着いてよく噛む、というのがいいようだ。いつもは朝食は立って食べているが、今日は座ってみた。

味を感じて、今なにを食べているかを感じて食べる。

 

日々どちらかというと燃料供給という意識に近い気分でいたが、折角の食べ物、味わってもばちはあたるまい。

 

こうした思いは、大きく言えば”この世にたまたま生を享けた”と思い、ただ生きるだけ、と思って生きるか、”たまたまの生ではあるが、折角の生を味わいつくそう”と思って過ごすかの差であるように思う。

 

日本人は特定の宗教を持たないひとがほとんどであると思う。本来の意味を極限まで薄めた形で、キリスト教式の結婚や、クリスマスや、新年初詣などを行っている。

それが特定の宗教者のみが行うべき、という意識はないと言ってもいい。

 

だが宗教という仕組みのいいところは、生の意味や、死の意味や、生の目標などを人に考えさせる機会となりやすいところだと思う。生きがい、生きる意味、生まれた意味。

 

そういうものがある方が、なんというか生きることに張り合いが出るだろう。

 

グノーシス思想や禅が人気があるのは(まあ、グノーシスはあまり人気とはいえないか。個人的に好きなのは、と言っておく)、ひと個人個人の魂は端的にいえば神の一部だ、と言い切っているところに尽きるだろう。

 

自分がおこがましくも神である!!なんという思想であろう。

 

だが、盲目化され、牢獄としての肉体に生きている間閉じ込められている、と設定されている宗教の魅力は、このちっぽけな私がなんと神であるのか、という驚きとまあ、うれしさ、であろう。

 

間違いなく、神と人とを峻別することで生業としての教会組織を維持すべき、と思う従来のキリスト教は、本能的に自らが生き延びるために、グノーシス邪教として殲滅した。文字通り根絶やしにした。

 

仏教に私は詳しいものではないが、その宗派による差異はともかく、鈴木大拙の禅などを見てもこうしたグノーシス思想との親和性が高い。たまに海外から日本の禅に飛び込む方を見るが、そのきっかけはこのようなところにあるのではないかと思っている。

 

日本人は特定の宗教に囲い込まれることをよしとはしないが、大きくこのような仏教思想にも触れ、どことはない安心感を抱きながら生を過ごす、という境地にいるのではないだろうか。

 

日本以外の世界の人々からすると、積極的に教会等にコミットはせずともある程度特定の宗教に近しい、というのがスタンダードな心持であろうから、日本人は不思議だ、となるのだろう。

 

だが見えにくい形で、ぼんやりと死後の世界や来世や輪廻の思想に囲まれているのが、いわゆる日本の死生観、ということになるのだろう。

 

それはある意味、”宗教的”といってもいいかもしれない。

 

きみは自分に外側から降りかかった偶然に対し、たとえ長い時間がかかっても、絶対にそれが必然だと読み替えて理解しようとするタイプだと、つくづく思ったな。

 

四方田犬彦氏が、57歳の時にご自身の人生を振り返って書かれた「人、中年に至る」のあとがき部で、自分で自分に問いかける形で書かれたものだ。

 

偶然でしかない人生の出来事を、あたかも必然であるかの如く扱う“意地”のようなもの。

自らの人生を受け身の他人事ではなく、自ら受け入れる自分事として生きることの大切さを、あるいはおっしゃっているのではないか、と思って読んだ。

 

(受け身の会社員生活などは、ちょっと人生他人事臭ありますよね。。「花であることでしか 拮抗できない 外部というものが なければならぬ」と詩人の石原吉郎氏は言っていますが、矜持をもって自らが”花”としてあり、生きること、というのはとっても大切であろうと思います。グノーシスの諸文献をご紹介くださった荒井献(あらい ささぐ)さんが94歳でおなくなりになったようです。氏のご紹介もあり、グノーシス思想に触れることができました。ありがとうございました)

9月15日 タッチパネルは結構厳しい。券売機でやばさを感じた。

名古屋に帰っていたときのこと。

 

JR切符売り場、3つほど券売機があったが、1つの前で推定70歳位?の小柄な男性がつまっていた。

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切符が買えないようだ。

私もおっさんなので、別にことさら距離を取るでもなく、自然に後ろにならんでいたが、まあ、一般的には警戒されそうな雰囲気の人であった(ヤクザ系ではない。疲れ果て系、かな)。

 

入れた小銭が返ってきていたので、”買えませんか”と軽く気が付くと話していた。

まあ、ちょっと警戒していたのか、いざという時繰り出す”気さくな関西弁モード”が自然と出ていた。

 

私名古屋では知らない人には標準語でしゃべっている。独り言や夢の中や家族には神戸の言葉でしかしゃべらない。まあ、よそ行きの言葉である。仕事は基本全部標準語。外国語感覚でしゃべっている。関西弁と標準語が混じることはない(無理やり混ぜることはある)。

 

だが、なんとなく懐に入るためには関西弁を使うときがある。知らないひとにしゃべりかけられたりしてもそうなるときがある。道でのセールスなんかは、関西弁だと断りやすい気がする(気を遣ってギャグで断る)。

 

このあたりの心理、我がことながらちょっと複雑な気もする。

 

その人は、買えない、と途方に暮れている感じ。

”酔っぱらってるから”という言い訳が出たが、確かに酒臭くはある。まあ、私は他人事でもないので、別になにも思わない。

 

”もういっぺん入れてみてよ”となんとなく援助モードで小銭を入れてもらう。

金は足りないわけではなく、340円の行き先に440円入れていた。

 

うーん、340円のパネル表示を押したあとに、ひとりですか?2人ですか?あとなにかやりたいことは?領収書は?というような画面が出てきた。

 

すこしとまどう。

 

ん?ボタン押したら切符出てくるんじゃないの??

 

ここでつまずいていたようだ。

 

”一人分”の表示を押すと、無事切符が出てきた。

 

男性はめちゃよろこんで、お釣りの100円を呉れようとした。なんというか、気の毒な気がした。

 

”いやあ、めっちゃ金持ちなんで”とわけのわからん乗りで笑って断った。。

(残念ながらこのボケは広がらず。。”うらやましいなあ”などと言ってくれれば”ここ笑うとこです”といえたのだが。。)

 

年を取ると、世間の変化についてゆけない。

明日は我が身、としみじみ思った。

 

(セルフレジなどは、10KGの米を買った80歳のおばあさんとかだと、読み取り部にバーコードかざすのは無理ですよね。。。。(ビヨーンと伸びればいいけど)。ついてこれない人は無理してついてこい、というのがイノベーションの基本的な雰囲気だと感じてますが、自然体でわからないと結構疎外感持っちゃいますよね。。。)

 

 

9月14日 源氏と死霊とエセー。積読本の功罪について。

子供のことは大河ドラマを見たことがなかったが、大人になってからはぽつぽつとみるようになった。

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まあ、史実ではない部分もあろう。不明なところを創作で埋めることも勿論だろう。

司馬遼太郎などを読むと”ああ、日本の歴史はこうだったのか!”と詠嘆する気持ちになるのだが、司馬史観などと呼ばれるように当然司馬氏が歴史のアイテムを用いて司馬世界として提示したものではあるのだろう。

 

留守宅には多量の”積まれ本”がある。もはや床に積まれている。だが足の踏み場があるレベルまで、調整してはいる。

 

で、たしかこの本どこかで見たな、という本と、あれ?この本買ってたのか!?という本に分かれる。勿論読んでいないので、記憶があいまいなのだ

 

積ん読本は、積んでいるだけで自身に影響を及ぼす。これは別にオカルトではなく、まあ、おぼろげにでも買ったことを覚えており、いくら床であってもたまーに視界を横切ることもなくはなく(まあ、後ろに隠れているのは厳しいが)、本の叢を分けてある本を探求すれば、探求途上で”あ、こんな本買ってたんか!”というエウレカ!((笑))もあるわけだ。

 

タイトルと作者だけでも、なにかが伝わるものだ。そして出版社や装丁、古び具合などの要素が相まって、その部屋で過ごす時間はじわりと“積読本”を脳内にわずかに記憶させる。

 

そしてなにかの拍子にその本を手に取って、パラパラめくれば!

もう脳内はほぼ臨戦態勢だ。

 

もはやいつ購入したかもわからなくなっている。

一つの判断は発行日だが、まあ普通はブックオフで買っている

 

長い積んどかれ期間を経て、とうとう読まれる機会を得た本!!

だがだいたいは”まえがき””あとがき”を読まれて、なんか読んだ気になられて終了だ。

 

だが、そういう経緯を経つつも、あきらかに電子本とは違う佇まいを、彼ら・彼女ら((笑))はもっている。

 

たぶん、電子本と本を比べるのがおかしいのだろう。別の存在だ。

比較してどちらがどうとか言っているまえに、余裕があれば買えばいい。

 

前振りが長くなった。

なにが言いたかったかというと、大河で”光る君へ”を見ていたら、自らの物語を帝に献上する、という機会を与えられた「まひろ」こと紫式部が、何を書こうかと考えながらあきらかにゾーンに入っていく姿が描かれており、そのことが妙に心に残った、ということなのだった。

 

そして出てきた、「これでしかありえない」という、自身から生み出されつつも、自らの手が”創作の女神”のものとなった結果であり、自身が生んだとは思えない(別にそれが傑作であるなしは関係なく)ものの姿、を感じたのだ。

 

それがのちの「源氏物語」である。

 

もちろんこうした経緯はいわゆる“史実”に残されてはいまい。だがはたしてそうではなかったか、と感じる確かさがあった。出てきた経緯はそのようであったろう、というような。

 

 

私もこうして「物語」を生み出したいものだ。

 

 

そんな微かな野望も、大それた秘すべき野望であろうが、

ひとには言うべきではなかろう、と感じるものが、

同時に微かに生まれた気もした。

 

本を読み、売り、再読し、積読する。

すべては、滋養栄養としてわたしの仮に与えられた”区分”、明確に分かれているわけではないが”濃度が濃い”部分である我が脳髄に、

 

水や太陽と同じように与えていくのだ。

 

すべての創作は模倣から始まるという。

模倣はその時模倣ではない。

 

いや、”うまく出自をごまかす”とかいうレベルではない。

いわば父母から子が生まれ、父母の要素を内包している、という

 

だがあくまで違った人格の別存在という、

まあ、そんな感じの”模倣”、いやそれこそ本来の意味の”トリビュート””インスパイヤ”であろう。

 

源氏を生むきっかけに、”枕草子”があったと”光る君へ”は言う。

 

では私は”積読”の叢に隠れていたはずの”エセー”を少し読もうかな、

と思った。

 

すこし探して、単行本だったので、手間取った。その、

 

手間取り、がいいのだ。

 

うーん、死霊、買ったことあった気がするが、ほら、ここに。みつけた。エセーと共に、鞄に放り込んだ。

 

エセーと死霊、”自序”と”読者に”からひく。

どちらも本文でさえない。だが、

 

作者は結構大切な思いで語って(書いて)いるだろう。

 

自序

ここにやっと序曲のみまとまったこの作品について、その意図を述べるつもりはない。けれども、この作品が非現実の場所を選んだ理由については一応触れておきたい。開巻冒頭にこの世界にあり得ぬ永久運動の時計台を掲げたのは、nowhere, nobody の場所から出発したかったためであり、また、そのような実験室を設定することなしにこの作品は一歩も踏み出し得なかったのだから。

 

埴谷雄高 死霊1 自序より

 

読者に

読者よ、これは誠実な書物なのだ。この本では内輪の、私的な目的しか定めていないことを、あらかじめきみにお知らせしておきたい。きみの役に立てばとか、わたしの名誉となればといったことは、いっさい考えなかった。もっとも、わたしの力量では、そうした企てなど不可能なのではあるけれど。わたしは、親族や友人たちの個人的な便宜のために、この本を捧げたのである。わたしが他界してからーやがて彼らは、このことに直面しなければいけないー、この本に、わたしのありようや人となりをしのぶよすがを見いだして、彼らが、わたしに対する知識をより完全で、生き生きとしたものとしてほしいのだ。

 

モンテーニュ エセー1 白水社 宮下志朗

 

本には作者の魂のかけらが込められている、と感じるところである。

 

(本、とはその中に小さなしかし自らによる世界を、創世する行為に外ならない、と感じますねー、こういう序を読むと)