夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ヘッセ、ユング、クライドルフ。

カール・グスタフユング。1875-1961.スイスの心理学・精神医学者。

エルンスト・クライドルフ。1863-1956。スイス、ベルン生まれ。画家、絵本作家。

ヘルマン・ヘッセ。1877-1962.ドイツ、カルプ生まれ。作家。1912年(35歳)以降はスイス、ベルン近郊へ移住,以降スイスに住む。

ばらばらに知った3人の外国人がたまたま繋がりがあることを知った。

1914年8月に第一次世界大戦が勃発。
1913(ユング36歳)-1917、ユング”死者への七つの語らい”を自費出版(1916)、時にそれを友人に贈る。のちにそれを「若気のあやまち」と述べ、後悔した。

1917、ヘッセ40歳、42歳頃のユングと出会う。”デミアン”を数週間で執筆、2年後偽名で出版。

1908、1915、ヘッセがクライドルフにつきいくつかの記事を書く。

1917、クライドルフ、イタリアに近いスイス・ロカルノに滞在。ヘッセと共に絵を描いたり、スケッチをしながらティチーノの街を歩く。ヘッセは画家から水彩画のテクニックを学ぶ。クライドルフ54歳。

「蝶の採集と魚釣りは私の人生の二つの大きな楽しみでした」1913(ヘッセ36歳、姉アデーレへの手紙)

スイスにはドイツ語圏があり、ドイツ人が戦争を挟み行き来をしている。ヘッセは蝶を愛し、蝶や昆虫を擬人化し、素晴らしい絵本を描いたクライドルフに関係したのもそうした趣味が関係したのだろう。

一方、小冊子でグノーシスの神、アプラクサスを個人出版せざるをえなかったユング、偽名ながらユングとの出会いも影響し、2週間で”デミアン”にその思いを結晶させたヘッセ。そのころヘッセはまた絵の手ほどきを受けながらクライドルフとスケッチ旅行をしているわけである。

約100年前の出来事であるが、極東の島国の一住民である僕が、こうしたことを特に調べるでもなく知ったこと、それに意味があるのかどうかはわからないが、ここに記しておきたくなったのである。

ユング池田晶子さんの著作を通じ、読んでみたいと思ったのがきっかけである。僕の気質にあっているようだ。
ヘッセはたまたま読んだ井辻朱美さんの紹介文、そして高田美苗さんの銅版画が縁になって手に取ったのであった。(今見ると天使の羽根と悪魔の翼を示す高田さんの絵は大変意味深である)。

クライドルフの方は、単純にその絵に魅かれたのが契機であった。虫や花が好き、という僕に気質にあっていたからだろう。
甘すぎない妖精画へのドイツ流のアプローチが気に入っていた。

戦争がこれらの人々に、善と悪、死、といったことを考える影響を与えたことは間違いないだろう。中立国であるスイスに関係し、近くで、ヘッセに至っては徴兵審査ではねられている。40歳に手の届く老兵となろうとしたわけである。家族の関係でも悩んでいる。

たまたま同時代の人々の著作・絵画が、僕の周りに集まった。ただそれだけのことではあるが、それを契機になにか考えられたら、と思っている。


さて、ではなぜグノーシス、アプラクサスがそれほど気になるのか。

既に本ブログにて何度かグノーシスについて述べてはいるが、改めて考えて見れば、以下の2点で場合によっては現在のキリスト教社会を全く違ったものとしていた可能性がある考え方であるが故だ。

そしてその”魅力”故に、本質的に教会による原始キリスト教を駆逐し、主力になる可能性が極めて高かったが故に、根絶するためにそれを信じるものを異端として殺し、その神を悪魔としたのであろう。

私見だがそう思っている。

その特徴は2点。

1.全ての人間は神(の一部)である。だからそれを知りさえすればよい。(知るために叡智=グノーシスが必要。)

2.その神(バシレイデス派ではアプラクサス、あるいはアブラクサス)は、この世の365日全てを司る善と悪を併呑する、あるいは超越する神である。

これも個人的な感覚であるが、教会キリスト教では、自らは神である、ということはない。神を愛し、認めてもらい天国へ行き、復活する、というものである。そして神がいて、悪魔がある。

グノーシス派はキリスト教の一部であるというが、そもそもその構成が全く違う。

考えてみよう。多分に現代日本に生きる僕の感覚によるわけだが、それほど離れてはいないはずだ。

つまり、自分が神の一部だと説かれるのと、神が他者であり、その思いに報いるために自分を律せよ、というのとどちらが人に取って魅力的か。

その自分自身が一部であるところの神は、善をも悪をも超越した”全て”である、といわれれば尚。

どちらが人にとって魅力的かは自ずからわかるはずだ。そこでは修行の場としての教会は必要であるかもしれないが、毎週人が集い牧師に話を聞く、という形での教会は必要ない。

既に生業として教会組織が出来ていた以上、そうした教えはその存在理由を脅かす恐ろしいものと見えたのだろう。

欧州ではだから徹底した異端、悪魔信仰として弾圧された。のちの魔女狩りとも共通する要素があるかもしれないが、より根源的な存在理由を脅かすものとして。

実はこの考え方は、禅仏教ときわめて近しいものだ、仏教では草木のみならず無生物にも仏性を認める。当然個人にも。従って禅の世界に入った欧米人が、禅に入る前にグノーシスを知っていれば禅には入らなかったであろう、というコメントを出しているともいう。(日本での暮しが厳しいのか・・)

そうした日本人にとっての親和性もあるのであろうか、根絶され悪魔と看做されるような宗教とはどうしても思えなかったのであるが、考えて見れば当然でもあった。

アプラクサスはどちらかというと”人格神”という感じも希薄である。バシレイデス派ではわからないが、他のグノーシスでは、この世を作ったとされる創造神は一段下の神とされている。

善と悪を併せ持つ神、男と女を超越したもの、それは云わば”全”とでもいいたいものだ。

無とは無いものだから無は無い、と池田さんはおっしゃるが、全ではないものを”無”ということで表すことができるだろう。

神、というとサンタクロース似で白いひげで雲の上にいる老人をイメージしてしまうが、そうした”神”ではなく、”状態”。神というものを考えた時に、人格(神格?)を否定し、状態であると言う風に感じ出すことは、これも自然なことではないだろうか。

”信じる”を信じない。

話がずれるが、本日朝3人の外国人のことを考えていて連想したことも記しておく。

よくある意識調査、”あなたは神を信じていますか”、通常は他国と比べわが国では信じている人間の割合が極めて低い、信仰心の無いちょっと残念な国民だ、とする論調がいつものようである。残念な、というのは読者たる僕の印象だが、書いた人間もそうした感想を”啓蒙的上から感覚で”込めているのは間違いない。

こうした”啓蒙的上から目線”が新聞から若い人を遠ざけているとおもうのだがそれはまた別のところで。