夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

カルトとグノーシス。

 

 

 

グノーシスのことを初めて意識したのは、ヘルマン・ヘッセの”デミアン”を読んだ時であった。

 

 

デミアンはヘッセ自身を彷彿させるこの物語の話者、シンクレールに酒場でこう語る。

 そしてーいつか読んだことがあるがー放蕩者の生活は神秘主義者になる最上の準備の一つなんだ。聖アウグスティヌスのように予言者になるのは、いつもそういう連中だ。聖アウグスティヌスもかつては享楽児で道楽ものだった」

 P.115 ヘルマン・ヘッセ 「デミアン」 新潮文庫 高橋健二

 

学生時代の推薦図書としてではなく、すこし時間がたってから読んだ記憶があるが、こうして書き写してみると、僕は”神秘主義者”という語が通常意味していることについて、理解していなかったことに気づいた。予言者、もそうだ。これらの語は、直接に神、あるいは全とのつながりやそれへの希求、あるいは帰属を示す語であったのだ。

 

不可思議な少年、デミアンとの、シンクレールのつかずはなれずの関係が続く。ある日ハイタカの絵をデミアンに送ったシンクレールは、教科書に挟まれたデミアンからのメッセージに接する。

 

そこにはこう書いてあった。

 

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」 

 P.121 同上

 

そう、グノーシスで言われる”アブラクサス”である。

 

生まれざる父から諸存在、天使たちが流出する。出てくるのはまず六つの霊的な諸力、「心」(ヌース)もしくはキリスト、「言葉」(ロゴス)、「思慮」(フロネーシス)、「知恵」(ソフィア)、そして「力」(デュナミス )であり、これによって本来のプレーローマが構成される。次に最後の二者から、連続的な下降線を辿りつつ、三百六十五の天使が生み出される。彼らはそれぞれ、上位のそれに模して造られた自らの天を所有している。この三百六十五の天球は世界年ないしアイオーンの空間的表現形態であるが、同時に神と造物主の間の隔たりを象徴している。というのは、この世界と人間を創造するのは最下位のクラスに属する天使たちだからである。その首領がユダヤの神であるが、名を「アブラサクス」(もしくは「アブラクサス」)とも呼ばれていたらしい。これは天の総数である三百六十五を文字化した名前であるが、元来は、四つの子音で書き表されるユダヤの神名ヤハウェ(テトラグラム)の謎めいた言い換えであったと考えられる(「アルバ」/「アブラ」=ヘブライ語で「四」)。

 P.343 クルト・ルドルフ 「グノーシス

 

この教説は、ハドリアヌスアントニヌス・ピウスの治世(117-161)、アレキサンドロスで活動したバシリデース(ギリシア名バシレイデース)によるものである。キリスト教グノーシスを自覚的に奉じ、キリスト教神学者であろうと努めた最初の重要人物であるという。ヘーゲル哲学史講義において彼を「最も優れたグノーシス主義者」と呼んだという(同書P.340より)。

 

そのときデミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。-さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。 

 P.123 「デミアン」 ヘルマン・ヘッセ

 

デミアン」の中で、主人公のシンクレールは、デミアンとその母、エヴァ夫人に出あう。デミアン、とはもちろん”悪霊に取り憑かれた者”という意味から来ていると作者は言う。そしてエヴァ。この名もまた象徴的である。親子であるというが、一体であるようでもあり、全てを知ったもののようでもある。大戦を予知する夢を見るデミアンはまた、同じく大戦の夢を描いたユングのようでもある。

 

グノーシスの思想は非二元的であるがために迫害されたと考えている。

 

神が自らの中にある、と見る思想は、同じ神を自らとはあくまで別であるとみなす”同じ神の徒”から認められることはないだろう。異教的である、という評価はある意味悲鳴であるようにも思える。

 

カルト、という言葉がある。グノーシスを迫害する立場からは、グノーシスはカルトであろう。みずからと相いれないものを糾弾し殲滅するための理由として”カルト”の語は使われる。だが、その思想が真摯である場合、殲滅すべき汚らわしいものとしてのカルトで本当にあるのか、という疑念が起きる。

 

自らに都合がわるいものを排除したいのはわかるのだが。それをなぜ物理的に殺戮するのか。もちろんここでのなぜ、はわかっていて言っている。行うもののなかにあるものは、レベルの低さであり、本人も気づいているのでは、ということである。その気づきも、”体制維持””上位者からの命令”によって、抑圧され実行されただけではないのか。

 

実行者の苦悩、があるのではないか。だから隠す。無かったことにする。相手のことをとことん知らない(汚らわしい行為=カルトとみなす)、知りたくない、知ると”自らが苦しむ”。

 

なので、こうしてグノーシスの思想が現代にも”流出”しているのだろう。そしてヘッセに、ユングに、私にも届くのであろう。

 

宗教家も含め、通常の人々は、神を非常に遠い存在ととらえているので、神を体験的に知ることができるとは信じられないのです。

「内在の神」を「自己」として体験したことを、教会が異端と見なした時代もありました。今日でも、アバターを”悪魔に取り憑かれた者”と呼ぶ宗派があります。また、イエスの「キリスト意識の神性」を否定する人々さえいます。これらはすべて、人間は”ここ”にいて、神は”上”にいるとする、分離の二元性にしがみつく自我に由来します。

 

P.55 デビッド・R・ホーキンズ (わたし) 真実と主観性 立花ありみ訳

 

カルトは大概、搾取的です。カルトの教祖は支配的で、お金を重視します。また、組織に対する忠誠心を強要し、布教を叫び、配偶者や家族、友人との関係を断絶させます。秘密や階級があり、洗脳に近い形で心理的圧力をかけたり説得を行ったりします。なかには教団を去った後でもネガティブな影響が続き、精神的にも肉体的にも病んでしまう人がいます。また、イニシエーションや宣誓、忠誠の誓いがあるのもカルトの特徴です。教祖はカリスマ的で説得力があり、個人崇拝を求めます。信者にセックスを禁じても、自らはそのルールに規制されません。

同、P.47

 

グノーシスが、カルトとして扱われた、という歴史的な事実があるとしたら、そのことがカルトとはなにか、真理の道はどこにあるのか、ということを考えるきっかけとなってもいる。

 

それが理由なのかもしれない。

 

 

デミアン (新潮文庫)

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グノーシス―古代末期の一宗教の本質と歴史

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<わたし> ―真実と主観性(覚醒ブックス)

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