夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

グノーシスと仏教。

池田晶子さんはこういった。

私は宗教については詳しい、と。であるからして、宗教について述べるが、もし仮に自分を教祖のように考える読者がいたら書き手としては敗北である、と。

宗教とは、考えることが契機になる気がする。そして又池田さんは言った。悩むな、考えろ!と。

哲学とは死について考える練習、死とはなにか。

だれも死について経験した人はいない。臨死体験というものはそも死んではいないのだし。

死んで無になるのがこわい?無とな文字通り無、怖いも怖くないもない、ただ無いのであるから、何故に無を怖がる要があろう。なぜわからない死を怖がったりできようか。

こうして順番に池田さんに説かれると、順を追ってわかってくる気がする。

確かにある意味池田さんの(文章から推察できる)生活は、あたかも修行するひとのようではあった。新聞やTVはほとんど見ず、PCなどはなにものだ、頭一つあれば森羅万象、すべてに一瞬で到達できる”考える”が可能であり、もっぱらそれにやみつき。

しかし、それは例えば宗教によって強制されたものではない。自ら自然にそうなったものだ。

それはそしてみずから考えて、それを示す姿であるが、それはたとえば後世から教祖と呼ばれた賢人のありかたにも通じる。仏陀しかり、イエスしかり、孔子プラトンもまた。彼らは”宗教”を行おうとして説いたのではなかったろう。

池田さんは自らのありかたが教祖、と呼ばれる存在と似たものであることもご存知だったのだろう。そしてたぶんいくばくかの心配をこめて、前述のように迷える僕のような”おっちょこちょい”の読者に向けて警告を入れておいてくださったのである。

そして池田さんは信じる、というものがわからない、ともおっしゃった。わかる、ではない、信じるで人はなにかがわからないことを心のなかでわかっていて、それを押さえてある物事が”そうであることにする”。それが信じる、というありかたの無理のあるところだ。

僕が池田さんの書を読んで理解する”信じる”の弱いところはそこだ。ではわからないことはわからないとわかろうよ。そう池田さんは教えたのではないだろうか。

いわば、池田流でいうなら、”信じるな、考えろ!”とでもいおうか。

グノーシス、にたどりついたのは、池田さんの文章が契機であった。散々書いてきたが、ユング自伝2、”死者への七つの語らい”からである(今気づいたが、7、という数字はグノーシス的にも意味がある)。そこに書かれた、アプラクサス、はそのあとヘルマン・ヘッセの”デミアン”において神秘的にちらりと顔を見せた。

バシレイデス派は、他のグノーシスとは肌合いが違っている。登場人物が違うのはある意味当たり前で、”グノーシス”つまり知ることが契機である、というくくりで集められたものであるから違って当然かもしれないが。

そこであるアブラクサス、という365天の支配者は、邪悪なこの世界の造物主(デミウルゴス)である他のグノーシスキリスト教で述べられるヤルダバオートとは、同じ、あるいは類似の位置に居るはずであるが、違う存在であると感じられる。

そもそも与えられた形が違う。ヤルダバオートは獅子の貌を持ち、アブラクサスは鶏の貌を持つ。下半身に蛇が関係するのは類似点であるが。

バシレイデスが示すこの世の始まりは、何も無い、無、がきっかけである。そこで”存在しない神”が特に意思なく、種子を下においたことがすべての始まりなのである。

こうした無、の扱い方、なにより知ること=グノーシス、を重要視することは、悟りを目指す生き方を行い、この世はすべて無常であり、”老病死”を見据えて考える、仏陀の教えと近しいものがあるだろう。

特に禅、との親和性があるように思う。

池田さんは生前、妙に仏教と縁があるとおっしゃった。考え方としては禅の考え方がわかる、と。

初期の仏陀の言葉などを読むと、死したのちのことは答えなかったとある。また、そもグノーシスキリスト教、というものも、プラトンギリシャの哲学、宇宙観が影響しているのである。古い古いと思っていてもギリシャより新しいのだ。そしてソクラテスは池田さんの著作を通して近しい存在(!)ですらある。いや、間違いなくそんな人だったのだろう、という確信を以って身近なのである。

アブラクサスの祭、という小説がある。玄侑宗久師は確か臨在宗の僧でいらしたので、なぜに、と思ったが、別に仏教徒キリスト教について語ってはいけないわけではないのだが、(たしか師はキリスト教にも関わられたはず)それは別にしても、アブラクサス、というありかたに師は親和性を感じられたのであろう。

そう思うと、なにかコアな部分、脈々とながれる考え方の道、のようなものの存在を感じる。従来は、方便としての”神”が考え方の流布、理解の手助けをしたが、現在は逆にその”本当にそれが存在するのか”という疑念を克服するために、”信じる”が必要となり、そのために宗教というものがある意味衰退しているが、そも原初、仏陀やイエスが述べようとしたことはなにか、と考えるなら、それは死に対する考え方を通した生き方の一つの提示、であったように思う。池田さんはそれを現代、というフィルターを通して示された。そういう意味ではたしかに”教祖”と同じことをしているわけであるが、それが”教祖”と呼ばれた時点で陥る無理解と”信じる”まみれにもまた、大変詳しかった、といえるだろう。

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

アブラクサスの祭 (新潮文庫)

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