経験をした、記憶としての私は、そのときのままとしては無い。
今、思い出す私の中にある。
また、今の結果としての将来の私はあるが、
それもまた今思っているものだ。
これは当たり前であるが、そのことはそうだ、と思っていないと、ぼやける。
過去の自分に引っ張られ、将来の自分が気になる。
今、私があることだけだ。
これが、コギトエルゴスム、我思う故に我あり、の意味、池田さんのおっしゃる”思う我あり”の意味だろうと思っている。
当たり前で、わざわざ何故そう思うのか、とも思うこと。
過去はない、将来はない、今だけ。
聞けば誰しも納得するだろう。無い、の意味がすこしずれる。
過去の記憶があることを、無いといっているのではない。
将来が来ることを、無いといっているのでもない。
だが、過去や将来は今にない、ということを、考えるのではなく、感じること、そうあること、が難しいようだ。
感じる、とは、今に安らぐこと。
考えるとは、今から逃れ、過去や未来に束縛されるリスクをもった行為。
荘子にある、”将らず、迎えず、応じて而して蔵めず”の語が伝えること、
これは心の持ちよう、便法を伝えるものではなく、今しかない、という事実を感じるための意識を示していると思っている。
あなたが、(私)と思うとき、それは思考にすぎない。
また、個別化した(私)があるという想念、個の意識に過ぎない。
それらは幻想だ。
それは実在である(真我)そのものではない。
しかしながら、あなたが(真我)そのものでなくなることはあり得ない。
なぜなら、あなたが存在そのものであり、(真我)そのものだからである。
これを、よくよく知りなさい。
それを見分け、気づきなさい。
これは、何度繰り返し伝えても、なかなか理解できないものだ。
なぜ理解できないか。
ただただ、頭で理解しようとするからだ。
それほど、人間というものは思考や想念や観念と自己同一化しており、
まだ幼い(私)というものは、理解するためになんであれ、
対象を作り出してしまうものだからである。
P.144 ヘルメス・J.・シャンブ ”それ”は在る
個別化した”私”、とは、”エゴ”と言われて”思い”として”意識”としてあるものである。
これは空、という限界や境界のないもののなかに流れる、雲のようなもの。
流れ来て、ただそうある。
思いもそう。感情もそう。
ヘルメスのいう”真我”の永遠のなかに、浮かんで、来りて、やがて去るもの。
去ることが重要なのではない。貴重なものでも、意味のないものでもない。
ただそうあるもの。
それが雲であり、思いである。
そのことを味わい、感じる。
それがわたしだ。