夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

エジプト。

世間では常識かもしれないが、自身でまったく知識として抜けていることがある。

僕にとっては、エジプトがそうであった。ピラミッドにファラオにナイル川。クレオパトラにアヌビス。考えたらわかりそうなものであるが、そこがまさか紀元前に知の面でも大きな集約と蓄積とを持っていたということは、考えたことがなかった。

あれほどのピラミッドを作ったところである。当たり前なのかもしれないが。

正確なところはいまだはっきりと把握してはいないが、紀元前2-3世紀ころ、アレキサンダー大王が関係する都市アレキサンドリアには、なんと100万人の人間が住み、4万冊、あるいは20万冊とも言われる巨大な図書館があった、というのだ。
もちろんエジプトといえばパピルス、写本等があったと言われればそれはそうだろう、となるが、100万人がいて、20万冊の図書館が紀元前2−3世紀にあった、ということは、お恥ずかしいがいままで全く考えたことはなかった。

知識とは、文化とはそういうことだったのか。

思えば個人的には、高校時代は、受験で選択する科目のみをやるということで、日本史と倫理社会を選択した僕には地理と世界史の知識はいまだ全くない。そしてあまりもったいない、という意識はなかったのだ。
とにかく地理には全く興味がなかった。はじめに地元の地理、ということで、どの地域が暑く、どのような工業や特産物がある、ということに、全く、毛ひとつも興味がわかなかったのだ。それよりは、物語に夢中だった。そこから得られる精神世界があれば、なぜにどこでキュウリがとれようと関係があるのだろうか。そう思っていた。
自分の内面世界で満足していたのだろう。今も実はにたようなものかもしれない。
従って、”廻りのことを知らねばならん”とか、”世界の歴史は常識だ”といわれようが、自らの興味に従って入手してゆくことがらで十分、と思っていた。世界の情報はそこで必要なものを適宜手に入れればOKだ。
政治、というものに代表される”大人の食うためのシノギの世界”というものに、敏感に反応していた面もあるかもしれない。いつかそうした世界にいやが応でも”出て行かねばならない”。であればいまはそのことを考えるのではなく。
そんな自己防衛の意識があったように思う。事実国語や、倫理で出会う知や感覚の巨人たちのことを学ぶことで、自分では十分だと思っていたものだ。

しかし、そこで抜けたもの。歴史観が全くない。世界的な土地勘が全くない。それを思い知らされたのが、今回のアレキサンドリアの図書館と、そして”エジプトの知”に関しての意識のなさであった。

そこには、紀元前と紀元後、という基本的な意識がある。日本史を取っていた僕は、紀元に直したときの日本の文化を無意識に基本においていた。そこでは紀元前といえば、文化など皆無の、いわば人が人になる以前の次代である、という原イメージをなぜか持っていた。”人類は紀元後からである”。

つまり、紀元後、つまりナザレのイエスが生まれたとされる時代こそ、文化が芽生え、発展した時代である、と無意識に感じてきたのだ。確かに黄河メソポタミア、ナイルといった川添いに発展した文化というものがあったようだ、という知識もあった。しかしそれは自分の中では神話に近く、たまに石碑などで垣間見ることができる夢のむこうの世界であった。

大学では法律を”学んだ”。””付きで書かねばならぬので明らかなように、法律には基本的には興味がなかった。本質的に興味が沸くのは、文学部、あるいは美術関連。しかし”どちらも喰えない”。大学とは社会に出るための資格を与えられる場所である。ただひとつだけ自分の運命を試してみよう。
そう思って僕は早稲田大学第一文学部を受けた。ここに通ったら、自分はそういう世界にいってもいい。そこ以外ではダメだ。勝手にそう思って受験し、そして落ちた。

そしていまこうしてここにいる。数年前までは”食うために生き”てきた。基本的に人づきあいが苦手(というか面倒)な僕は、”世間でシノグ”ためには自分の好きなことはしてはいけない、という恐怖があった。そちらでは喰えない。いまだにそう思う。そして今は企業で働き、とりあえず”喰えて”いる。

数年前に池田晶子さんの書物に出会った。人はよい師匠を持つべきだという。導師、グル、いろいろな言い方がある。実際に言葉を交わせればいいが、そうでなくともよい。書物を読んで、ということでもいい。池田さんの書物を読んだ僕は、”ああ、このひとを僕の(心の(笑))師匠にしよう”と思った。別に誰に宣言するでもない。池田さんになにかを申し上げるでもない。ただこの人が書いたものは、自分にとって必要ななにかを示している、と思ったのだ。

その教えは、”考えろ!”そして”人はパンのみに生きるにあらず”。つまり”私は生きるために食べている”。

今までは真の意味で生きていなかったのかもしれない。時間を無意味にエンターテイメントで消費する。自らなにかを生み出すことなく。それでいいのか。

そんなことを思わせてくれるものはなかった。ぐさり、と心にささったのだった。”ああ、このひとについていこう”。

幸せな数年であった。晩年(とかくのはなにか悲しいが)の池田さんはご存知の通り週刊誌連載を持たれていた。毎週のように週刊誌誌上という”俗世間まみれ”の合間にある”ご宣託”。宗教がかるつもりはないが、つまりはそれほどの純度をもち異彩を放っているように僕には見えた。これが続くのだ、と思っていた。”まだお若いし”。とんでもなかった。

エジプトのことであった。言いたかったのは、エジプトに知が集結する場があったこと。地理や歴史知識のない僕には、たしかにエジプトは昔はすごかったかもしれないが、いまはムスリムとテロとピラミッド観光の地。文化とは程遠いイメージである。そんなところに知恵が結集しているとは?

ボンヤリとしたキリスト教の知識では、モーゼはエジプトで育ち?イエスもまたエジプトの方へ逃げたような気がする。しかし宗教であればそれは史実であるのかどうか、との思いで、深く考えたことはなかった。しかし、そのときのエジプト、というのは実は文化の中心であったのだ。だからあの暑そうな地域に逃げるのだ。やっとそんなところがぼんやりと見えてきた。

ユングは自らを”アレキサンドリアのバシリデス”に模してグノーシスを語るパンフレット”死者への7つの語らい”を書いた。ここでもなにかひっかかった。アレキサンドリア??

さまざまな出来事がつながることがある。ユング。ヘッセのデミアン。W.B.イエイツ。ケルトスコットランドグノーシスキリスト教カバラギリシャ。そしてソクラテス

なんとはなしに読み散らして来たこのような出来事が、かすかな線でつながってきた気がしている。ケルトはエジプトから鉱物を探して移り住んだ民であるとか。カバラの思想にはグノーシスの思想が形を変えて”魔術”という形で残されている。デミアンにはアプラクサスが現れる。

そうした項目を繋いでくれる役割をしたのは、コリン・ウィルソンアウトサイダー”。オカルトの紹介者として認識していたコリン・ウィルソンだが、26歳で特段の教育もなしに世に問うた処女作、というにはあまりにも浩瀚なこの本を手に取ったことがきっかけであった。

松岡正剛氏の”千夜千冊”にてこの本の書評を読んで、そしてたどり着いたのが冒頭のエジプト、アレキサンドリア、20万冊といわれる図書館である。

つながればどうなのか。20万冊ならどうなのか。そういう気もするが、しかしこの世界は自分がいままでこの通りと考えてきたものより、もっと深く、長い歴史を持っているような気がしてきたのである。僕は無意識に、今の人間がいちばん進んでいて、過去の人間は遅れている、とかんがえてきた。これは主に科学の進歩という思想から来ていると思う。中世のキリスト教では、楽園に住まうアダムとイブが理想で、現在はその時代より悪い、と思っていたように思う。池田晶子さんを知り、プラトンソクラテスに真に出会い、その語るところの深さに驚嘆していたが、そこには確かに膨大な知の集積の地が、”文化”があったのだ。2000年、大したことない。

池田さんの言うとおりである。

アウトサイダー (1957年)

アウトサイダー (1957年)

松岡正剛千夜千冊

松岡正剛千夜千冊


松岡正剛氏のブログに記載されていたオリゲネスによる”キリスト教神学的10原則”がキリスト教を理解するのに役にたつように思ったので、ここに抜書きしておく。

1.唯一の神が存在し、万物を秩序づけそれ以前の宇宙の存在を準備していたということ。

2.イエス・キリストは、すべての被造物に先立って処女と聖霊から生まれた、ということ。

3.イエス・キリストは人間の身体と喜怒哀楽をもちえたということ。

4.聖霊が予言者と使徒たちに霊感を与え続けたのであるということ。

5.魂には実体と生命があり、この世を去ったのちには永遠の至福か永遠の罪業をうけるということ。

6.死者には復活があり、そのときには朽ちない身体をもちうること。

7.そもそも理想的な魂というものがあり、それは自由意志と決断をもっているということ。

8.霊には善なる霊とともに、それに逆らう悪なる霊があるということ。

9.この世はつくられたものであるゆえに、どこかで終末があるということ。

10.聖書は神の霊によって書かれたものであるのだから、そこには隠された意味が含まれているということ。