命ひとつーよく生きるヒント を読んでいる。
- 作者: 大峯あきら
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2013/07/31
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
すごい、本だ。
この本に引き合わせてくださったのは、池田晶子さんだと思っている。著者の、大峯あきら氏を知ったのは、そもそも池田さんとの対談から、だからである。
大峯さんは、何回もこのブログで書いてきたが、現在のこの日本で、というとほとんどこの世界で、池田さんのことをよく理解され、なによりその仕事、あり方を愛されている方だという意味では有数の方であると思う。
それはたぶん、この世界への立ち位置が、よく似ていたからではないだろうか。
そのあたり、この本から池田さんのことを書いた箇所を挙げてみる。
P.207から208、自作の句を挙げ、それに対する池田さんの評価、鑑賞文が記載されている。
通勤電車でこの箇所に出会ったとき、池田さんに出会った(いや、現世(笑)で池田さんに実際にお会いしたことは無いのだが)ような、驚きですこしビリッと来た。”ビビッと来た”ともいうのですかね。
どうも池田さんのことを書いたものに出会うと、嬉しさで同じような感じになってしまう、最近。
以下、引用。
まずは大峯さんの一句。
虫の音の星空に浮く地球かな
この句に対する池田さんの感想は、以下の通り。
「この句が面白いのは、虫の音を聴き、星空を眺めているところの私が、虫の音となり星空となる逆転の構図を鮮やかに捉えているところで、『浮く』の一語が、端的にそれを表しています。・・・・・・秋の夜長に私が虫の音を聞いているのではない。ただ虫が鳴いている。(私が)虫の音として鳴っている。私が星空を眺めているのではない。(私が)星空として存在していると、こうなります。科学的世界観成立以前のこれが本来の世界のありようなのです」
引用は以上だが、ここで感じるのは、池田さんが、そして大峯さんもおっしゃっている”科学”というものへの気づきであろう。僕も言ってしまえば現代日本の、いや現代、と呼ばれるこの時代の、おおいなる臆見(ドクサ)のひとつである”科学教”に毒されている一人である、そのことに改めて気づく。
どういうことか。僕なりの理解はこうである。
”科学”、という。科学とはいわば過去の”宗教”に代表される”無知な大衆が、無邪気に超越者を信じ込み、現世利益と死後の幸福を功利的に願う”という態度を抜け出た、現代人がすべからく持つべき常識である。
・・というのが、たぶんほとんどの日本人の理解であるように思う。僕も、そんなことをぼんやりと思いながら、例えば学校の授業を受け、社会で生活してきたように思う。
しかし、池田さんの本を読んで思った。
”あれ?それでいいのかな??”
いや、池田さんの本で超越者を信じるようになった、というわけではない(笑)。まあ、池田さんはある意味地球の存在を超えた、宇宙人のような方ではあるが。たぶん、人間だ(笑)。
そうではなく、僕のこの”科学”に対する盲信的態度、これは科学ということで超越しようとされてきた”宗教”への盲信的態度と同じものではないのか、ということを思ったのだ。
僕は極端なのかもしれないが、科学ですべてわかる、と感じていた。今、わからずとも、最終的にわかるのが、科学である、と。
だが、どこかで、”それでいいのかな?”と感じている部分があったようにも思う。
米国で現在も”進化論”を信じていない団体があると聞けば、理解できなく思っていた。”なんという無知蒙昧な人々がこの世にいるものか”。
しかし、どうもそれは違うようにも思っている。たぶん、その人たちは”進化論”を信じていないのではない、進化論、に代表される”科学ですべてわかる”ということを信じるのがあたりまえだ、という心理的・世間的外圧に対し、抵抗しているのではないか、と思うようになってきたのだ。
いや、実際にその団体のことを調べたわけではない。そうではないが、”科学”を信じるのが当たり前の地球市民、みたいなのが、典型的なドクサ、宗教がかつてもっていた、魔女裁判を生み出す土壌と同じものではないのか、ということなのである。
昔の魔法といえば、呪文や魔法陣で悪魔を呼び出し契約する。指先ひとつで、あるいは魔法の杖で奇跡を呼び出す、そんな感じだ。呪文の理由は語られることはない。それはただ、知れば、いわば”アクセスさえできれば”よいものだ。
気がつくと、”科学”が実現しているこの世界、同じことが起きている。コピーをする。TVを見る。ボタンを押すのみだが、自力でその仕組みを作り上げることはできない。
結局、自分では、ほとんどなにもできていないのである。
”魔法のボタンを押すだけ。”
身近に”魔法”が広がった、便利になったということなのだろうが、いったいなにが便利になったのか。
いや、”便利”ではある。しかしその”便利”、本当に必要なものなのだろうか。
古代ギリシャという。しかし、プラトンの、ソクラテスの、2500年も前の時代は、その精神面では軽く現代を凌駕しているのではないか。
水道はない。電気もない。しかし、その精神は。
子供のころ、イエス・キリストといえば神話の時代だと思っていた。悪魔が跳梁跋扈し、奇跡が渦巻く、そんなイメージだ。つまりは”関係のない過去の時代”。
しかし、だんだんそうではないことがわかってきた。あまり今と変わらない。
イエスが、仏陀が、ソクラテスが、語ろうとした真実、これにわれわれはすこしでも”進化”し、近づいているのだろうか。とてもそうとは思えない。むしろ”表面的な進化”に邪魔をされて、真実にアクセス、しにくくなっているのではないのか。
・・とまあ、そんなことを思わされるのである。この、大峯さんの一句と、それを鑑賞する池田さんの文章から。
科学とて一つの生きているうえでの、態度である。
そう、きちんと距離を取れば、それはそれで道は開けるのだろう。
それが、従来の”宗教”というものへの、正しい所作でもあるもかもしれない。
知らないことを知る。無知の知。
ソクラテスの名言が伝える真意は、たぶんそのあたりにあるのではないだろうか。