夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

言葉が”コトバ”になる。

若松英輔氏の著書、「池田晶子 不滅の哲学」を入手した。

池田晶子 不滅の哲学

池田晶子 不滅の哲学

書影をご覧になって分かる通り、装幀を菊池信義氏が担当されており、池田さんが2007年2月に没されてのち2009年同時期に前後して3社から刊行された”最後の新刊”であるところの”私、魂、死”がテーマとなったあの3冊の、正統な後継本である、との印象を持った。

私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

本を手にした際に目に飛び込んでくる”池田晶子”の端正な書体。

いまや言葉となられた池田さんが、言葉としてそこに佇んでおられる風情でさえある。本、というものの力、”物”のしての存在感の剄さを、感じる。

本を作り、世に出す、という作業。本を手に取るところで、読み手にある種の構えを、”心の構え”を要求する。

心地よい、緊張感である。

一読、いきなり引き込まれた。僕は失礼ながら若松氏の著書を読むのは初めてだ。震災にからんで、書評欄等でお見かけしたり、1年前のメモでその名を書いていたり、ということがあったのだが、こうして本としてきちんと対峙させていただくのは、初めてだ。
ご教示いただいたkyodatsu様には、改めて感謝したい。

第一章、「孤独な思索者」の冒頭からいきなり、来た。

”会ったこともなければ、遠くから見かけたことすらない。生前には、どんな声かも知らなかった”

ああ、同じだ。


池田さんの、本質に触れ離れがたく思われる方が、ここにも。

なにかよくわからない、”祈り”にも似た思いが、やってきた。なぜに”祈り”と感じるのか。

池田さんは”池田晶子”(ときに池田「某」)という”回路”を通して、真実を、本質を、”神”という言い方で伝えようとされうる人が”わかってそうでわかっていないこと”を、意識して発語されてきた方、というのが僕の理解である。

それを池田さんは”巫女”あるいは”哲学の巫女”とおっしゃった。

その著書を紐解くとき、週刊誌で2ページの毎週の連載を心待ちにしたあのころ。


その時僕は間違いなく、真実と、魂と、生と死と不滅と永続と流れと瞬間的永遠とを、感じていた、なんとある時期は毎週。

なんともはや、贅沢な時であったろうか。

それが途切れて、初めて知った、知らされた、”それがいかに稀有の状況であったのか”。

そしてそれがもはやありえないのだ。



”あとはあなたが自分で考えなさい。”





そう、お伝えいただいたと感じ、それが拙いながらのこのブログ、の存在理由でもある。



空を見上げると、”永遠につながっている”と感じる。生きる、が永遠の一瞬であると感じる。

それが僕にとっての”祈り”といえるものであろう。同じことを若松氏は”コトバ”と表現なさっているように感じる。




”意識しなさい、言葉はあなたが思っているだけの”言葉”じゃないのです。”



言葉を売る行為、売文に関する態度表明などから、僕は池田さんのそのようなメッセージを感じてきた。たしかに、言葉のことを意識していなかった。池田さんに、巫女に、真実の口に、教えていただいた。

そのことだけでも、なんというありがたさか。


この感謝が、”祈り”につながるのであろう。

ありがたい、あることが”難しい”ことをいう。あることが、伝えられたことへの感謝が込められている。

その”ありがたい”のことばとしての一番純粋な意味でのありがたさを感じながら発する”ありがたい”。これが、祈り。

まだ、途中だ。だが、読み飛ばせない、密度とその想い。


ゆっくりと、読ませていただこうと思っている。