夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

コロナワクチンモデルナ接種をしたことおよび一者(ト・ヘン)。

今朝の体重は、朝食前で66.3kg。体脂肪率は5.9%と出たのだが、たぶん明日は14%位になると思われる(腹部をつまんだ印象(笑))。

モデルナワクチンを接種して4日経過した。前回は40度程度の発熱があったので、今回もそれくらいか、と思っていたが、発熱自体は37.3度くらいであった。

人によっては全く気にならない体温かもしれないが、私は平熱が36.3度位なので、一度違うと結構フラフラする。接種は10時頃であったが、当日は問題なく、夜2時に発熱と手足の違和感で目が覚めた。その後目が冴えて眠れない感じがしたが、目を閉じていたら眠っていた。翌日も37.2-37度の微熱ながら、フラフラしていた。ロキソニンを適当に飲んで、1日にたぶん10時間以上寝ていた。

2日経つと、手足の違和感は無くなった。ただ体温が37度とまだ微妙に熱があった。まあ、それほど激烈な副反応があった、ということでもなかったので、良かったとするかというところだ。

さて、プラトン主義という考え方が気になっている。

プロティノス(205-70)が有名であるが、プラトンの時代から600年が過ぎたのちに、プラトンの考えを深化させた、という立場のようだ。

プロティノス自身がその名称を唱えたわけではないという。いまもしプロティノスが「あなたは新プラトン主義と言われています」と言われると、なるほどプラトンの学説を深化させた立場であるが、自分はプラトンの言葉に沿って考えている、ということで、あるいは戸惑われるのではないか、と参考書には書いてある(「新プラトン主義を学ぶ人のために」世界思想社、水地宗明、山口義久、堀江聡編、2014年刊)。

個人的な印象かもしれないが、この「新」の語、それをみただけでは意識してプラトンの考え方をベースにしつつ、新しい独自の考え、場合によっては本来「プラトンが考えもしていなかったようなこと」も含んで考えてしまっている、という感じがするのだ。

本来から逸脱している。

プラトンを好きなように利用している。

そこまで悪意ではないかもしれないが、自身の考えを強めるためにプラトンを利用している、と後世の誰かはあるいは感じて、この「新」という語で一群の哲学者をくくっているのではないか、と感じていたのだ。

前述の本をぱらぱらめくったところであるが、そうした印象は薄まったもののいまだ残っている感じがある。もう少し読み込んでみたいと思っている。

プラトン主義の特徴の一つとして神秘主義があるという。今の時代からすればプラトンプロティノスも同じような古代の思想家、という個人的印象を持っていたのだが、紀元前と紀元後、というのは考えてみると結構状況は違うのかもしれない。

紀元前、という年号の定め方はつまりはキリスト教がいまだない時代であるので、キリスト教的考えに当然ながら全く影響されないわけだ。一方で紀元後であれば既にキリスト教が始まっており、プロティノスは205年の生まれなのでキリスト教が生まれて200年間も影響を与えたのちである。ローマ時代、ヘレニズム文化(それがどういう文化なのかは全然把握していないが=日本史選択)の影響もあり、まったく人々の考え方は変わっていた、ということだろう。

例えば今の日本、2000年から600年まえであれば1400年代、すでに人々の考え方ははるかな彼方としかいいようがない。応仁の乱が1399年だ。

応仁の乱の時代の人と同じ気分でものを考えよ、といわれると可能だろうか。不可能という感じしかない。

そう考えると、「新」の意味もいわば時代の変化、と思うべきかもしれない。ことさらゲテモノと思うこともないかもしれない。

プラトン主義の特徴は、(個人的な理解ですが)一者(ト・ヘン)からすべてが流出し、流出したものはいつか一者に還る、問いうことだ、と理解している。そしてこの考え方が神秘主義的」ということだ。

このことをプラトンが明確に言っていたのかはよくわからない(不勉強)。暗示していたことを明確化、深化した、と説明されていた。そしてこの考え方への評価が、大きくこの考え方を「プラトン主義」と呼ばず「新」の語を足して捉えられたのではないか、と思っている。

時代として、プロティノスは、ギリスト教で異端とされたグノーシス派を批判していた、というが(どういう点を批判していたのかは要確認)、内容的には類似しているように思う。神から流出したものが、人類だ、という部分である。

私の個人的な理解(あくまで個人的)は、人類、あるいは人類の魂あるいは霊魂の部分が、本来は神、あるいは一、一者などと呼ばれるものの一部である、と考える考え方、これが今は「神秘主義」と呼ばれているのではないか、というものだ。神との合一、あるいは「全ては一である」、といったような。

日本の禅や鈴木大拙エックハルトグノーシスなどはこのような傾向の考え方を持っている、あるいは含んでいる、と今までの読書等で勝手に考えているのだ。

(様々な考えが、人間の歴史で興っています。それがすべて残っているわけではないでしょうが)