夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

アウトサイダー。

コリン・ウィルソン、”アウトサイダー”を読んでいる。

内田樹氏が高校1年のときに読んだと書かれていたことがきっかけだ。入手が困難で、図書館で借りている。

アウトサイダーとは。さまざまな定義が示されるが、要するに”この世に生きているが、この世で”適合”できないもの”のことだと理解した。そも”適合”とはなにか。なぜに適合せねばならぬのか、と言った風に”適合できない”。

あがく、人たちだ。決して”幸福”には見えないことが多い。実際の生き方として示されることがあるし、あるいは文学等のなかで造形され示されることもある。しかし、いずれにせよ、そのなしたことを通じて、あるいはなそうとせざるをえない姿勢を通じて、総じて強烈な印象を残す。一瞬の光芒、という趣もある。

”かれ自身は真理を旨とするがゆえに「アウトサイダー」なのだ。”P.4

”「アウトサイダー」は混沌に氣づいた人間である”P.6

質問、「現実とはなにか?}

バルビュス
 人間性の深部を知ること。

ウェルズ
 映写幕。人間の徹底的むなしさ。

ロカンタン
 人間の精神を麻痺させ否定する実存。

ムルソー
 栄光。宇宙の壮大な無関心。半分しか現実でない。
 これらおろかな人間がなにをしようと、現実は静謐で不変なり。

「人間の魂とは?」

ムルソー
 その根柢は宇宙の根柢と同じ。
 人間は日常の生活にたいしてみずからも根源的な無関心で接する状態に近づくことによって、自己のむなしさから脱する。

ヘミングウェイの云う「現実」とは

クレブス
 「一つのこと、あのなすべきただ一つのこと」をなすべき瞬間、自分が社会の将棋盤上で翻弄されるほかない一つの駒にすぎぬのではないかと感ずるあの瞬間。

ストロード
 表現不能。実現不能。それを見たものは、日常生活を営めず。

「実践的アウトサイダー」の意見

T.E.ロレンス
 不可知。わたしがそれを垣間見た結果は、なんのことはない、かえって面倒なことになった。
別の生きかたをするにはどうしたらよいのかも知らせずに、わたしを日常生活には不向きな人間にしてしまったのだから。
それを見てからというもの、わたしの人生は意味のない茶番劇と化した。

ヴァン・ゴッホ
 プロメテウス的不幸。プロメテウスは最初の「アウトサイダー」であった。

ニジンスキー
 いっぽうの極では神。他の極では不幸。宇宙は神と不幸のあいだに張りつめた永遠の緊張である。

P.118以降より抜粋。


やはり総じて”幸福には見えないことが多い”。が、そう見えて、では”幸福とはなにか”という問いが総じてついてくる。

この辺りで出てきたのは、”では、我が池田晶子さんであればどう考えるか”。

現実とは。わかってしまえばあとは”あがり”。おまけみたいなもので、ただ”生きて”いればいいもの。
”あら、わかっちゃった”

レジで金の存在理由がわからなくなる。このときのわからなさは、あのわからなさではないが、わからないふりでもない、一種別種のわからなさであったりする。深度が、違う。

自らの頭の中に、後ろ向きに”尖った”頭蓋の先から、入れ子構造のように”自らのなかの亀裂へと”落ち込んでゆく。ぽっかり穴をあけた”陥穽的”暗黒。

それは死を含め、存在を含め、宇宙を含め。

するりと手から抜け落ちがちなものである。奇妙な浮遊感的実感。

僕が考えるには上記のような感じであるが、では池田さんはアウトサイダー、といえるのかどうか。
すこうし、違う感じがする。もう少し、強い。もうすこし、全宇宙的視野がある。全存在的、といってもいい。外とはなんですか。中とはなんですか。そういってあがくことの意味をもまた問うてゆく、根源的な強さのようなものが、池田さんの存在のベースにはしっかりとあったような気がする。巫女、と自身のことを称された。巫女とは根源とつながり、根源と化しそれを告げ導くもの。アウトサイダーたりえない、云って見ればコネクターとでも云うべきもの。でもやはり、巫女、シュビラ、がよりしっくりくるようだ。

アウトサイダー (1957年)

アウトサイダー (1957年)

大峯顕氏が呼んだ”観世音菩薩”というのに、案外近いかもしれない。仏教での”宗教”ではない姿勢の部分、での悟りというものをお持ちだったからかもしれない。この手触りは、たぶん西洋世界では、ほとんどないのだろう。だから、とことん考えざるを得ない。ある意味、誠実だ。西洋と東洋との生活空間全般で感じる異質感の源泉は、案外このあたりから来ているのかもしれない。


同時に読んでいる本と見た映画の関係から。

にんげんのおへそ

にんげんのおへそ

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅう、とは英語ではWILD THINGS となっている。これをどう訳すのか。かいじゅう、という言葉の持つ語感が、主にウルトラ怪獣の存在感から”WILD"という部分にすこし違和感がでてくるが、これを”おばけ”と訳すのも、生きていない感じがして難しい。水木しげるのお化け、は、幽霊、とは違った”死なないが生きている”種族感はあるのだが(しかし鬼太郎の母は幽霊族だったが)、これも特定は難しい。死なないが消滅する、という意味では、例えば人魚や妖精というものは、寿命はないが(人魚は魂もないとされるが)消滅することはあるので、それに近い存在感かもしれない。

神宮輝夫がひらがなの”かいじゅう”と訳したのは難産だったようだが、慧眼だ。でもまだちょっと、苦しいところでもある。WILD、とくると、あくまでこの世のものなのである。象徴、頭の中の幻視、ではない。

高峰秀子、はすいすいと読んでしまう。しかし、なにかひっかかるものが残る。ここが、すごい。