夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

存在とは何か。

 

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック

 

  池田さん流の "言え言え” が久しぶりに読みたくなってこの本を開けた。

 

 池田さんは、”四聖” を、”行って還ってきた人” と評されている。

 釈迦、キリスト、孔子ソクラテスの4人であるが、さてどこに行ったのか。

 

 つまり、存在の謎、あるいは存在の彼方、であろう。

 

 池田さんの“云え云え”はいわゆる禅の公案と同じである、と、この本の白眉対談者のひとりである藤澤令夫氏は述べている。池田さんに“言え言え”と(うらやましくも)迫られて。

 

藤澤:池田さんが「魂」という言葉を使うときに、宇宙全体をイメージしますか。

池田:境目なんてどこにあるのだか。

藤澤:そうでしょう。

池田:どれが何なんだか、全部がいっせいに渾然と動き出す感じがあります。「魂」と言った途端にウワーッと広がって、底が抜けちゃうみたいな。

藤澤:それが哲学の正当な魂です。

 2001年哲学の旅 池田晶子 編・著 P.134

 

宇宙は、境目なんてどこにもなく、全部、である。

 

宇宙は魂であり、それが”哲学の正当な魂”である。

 

2人はそう語り合う。

 

同じように対談で”言え言え”と迫られた当時100歳の哲学者ハンス=ゲオルグ・ガタマー氏は、絶句のあと、”存在は光だ”、と絞り出さされている。

 

藤澤:じゃあ、ガタマーさんが存在は光だと言ったのなら、ぼくは「闇」、と言おうかしら。史上はじめて存在そのものを正面切って論じたパルメニデスは、「光」と「闇」(夜)から出発して構想された世界内存在を、真理ではなくて、死すべきものどもの思惑だと喝破したんだ。けれど、ぼくのいう闇としての存在というのは、イデアとくに「善」のイデア抜きの存在のことで、実際にはそんな存在は虚構でしかないから、やはり存在の求知者の魂の目には、光り輝いていると思いますがね。

 同P.136

 

現在はトルコ領だというエフィソスに、万物流転「パンタ・レイ」を言ったヘラクレイトスを訪ねて池田さんは引用される。

 

<同じ河の流れに、われわれは足を踏み入れているのであるし、また踏み入れているのでもない。われわれは存在しているし、また存在しているのでもない>

<不死なる者が死すべき者であり、死すべき者が不死なる者である。かのものの死をこのものが生き、かのものの生をこのものが死している>

<私にではなく、理法(ロゴス)に訊け。そして万物は一であることを理解するのが知るというそのことだ>

同P.154

 

サモス島にかのピュタゴラスを訪ねて池田さんはつぶやく。

 

宇宙の在りよう、宇宙の秘密を、物質生活など知ったことか、とにかく知りたいのだと切望する心性は、ごく一握りである。ましてや、そのような若者を導ける人、宇宙の秘密に通じた人は、さらに少ない。イタリアに渡って教団を形成したピュタゴラスの教えの伝授は、全て口頭で行なわれ、学徒たちの口も揃って固かったという。秘密の知恵が俗衆に漏れることによる弊害を、彼らは知悉していたのだろう。弊害とはたとえば、現代社会におけるオウム真理教の事件である。

 同P.152

 

 

 

霊魂の輪廻転生説を言い出したのも、この人である。数多の動物、植物の生を経巡り、人間においては、ある時は某、別の時は某であったことを全て記憶している。不浄な魂は冥界において必ず苦しむ。したがってわれわれ、今生においては常に魂の浄化に努めるべきなのである。 

 同P.153

 

これは宗教、これは哲学、と分けることの不毛を想う。存在の向こうを感じて、”考える”こと。

 

オウム事件にも触れておられる。ピュタゴラスが全て口頭で教えを伝え、学徒は口が固い。ごくひと握りの求知者を導く、宇宙の秘密に通じた人の少なさと、知恵の俗衆への漏れによる弊害。これがこの事件に対する池田さんの答えなのだろう。

 

本書は、池田某としての池田さんの魂が、時を超えて(時などなく)、永遠の中で同じ響きを持つ魂たちと邂逅したことを記した稀有の書、である。

 

ああ、まさに”コンプリート・ガイドブック”である!