新聞を読んでいて、気になったことば。
原文を捨ててしまったため、うろ覚えであるが、
秋の受勲者、漫画家東海林さだお氏のコメント。
ネタ帖が600冊以上あり、アイデアはそのネタ帖をじっくり寝かせて、得ているのだという。自分は年金生活者のようなものである、と氏は言う。例えで面白く言っているが、実感であろう。
ここでいうネタ帖というのは、アイデアそれ自体が書かれたものではないだろう。その場で気になった出来事やことばを単に書いたものだと推測する。
同じようなことを、故藤子・F・不二雄氏も書いている。
”ぼくの場合は、思いついたときに手帳にすぐメモしておきます。まんがのタネみたいなものですね。アイデア以前のほんのちょっとした思いつきみたいな、「ひょっとしてこれをふくらますとおもしろいまんががかけるかもしれない」というタネを思いつくたびに手帳に書いております。”F NOTE P.2より。
又、彫刻家・船越桂氏のアトリエに行けば、至る所に思い浮かんだ言葉が貼られているという。例えば、「個人はみな絶滅危惧種という存在 2006 1/25」。(読売新聞中部版 11月3日 P.14)
ここでは日付も意味を持っているかもしれない。そういうことを考えていた時期の気分へ。日付があると、個人的なタイムワープが可能なのだろう。
藤子は続けて言う。”この場合、タネをあまりふくらましたりせずに書いておくことが大切なのです。つまりタネの鮮度が落ちるというか・・・。もしも、その中にとてもすばらしい爆発力を秘めているタネがあっても、事前にいじくり回していると新鮮さが失われて起爆力がなくなることがあります。”
東海林氏の場合も、ずっと寝かせるということなので、生の思いつきをただすぐに書いておくのだろう。
古人が喩えた”創造の女神の舞い降り”という現象は、こうしたことと連なっていよう。
ひとの琴線に触れるアイデア、というのは、自らの心の奥、村上春樹的に言えば、”地下室の奥の扉をあけたさらなる地下”とでもいおうか、心の奥の奥に眠っている鉱脈のようなものなのかもしれない。
そこから掘り出した鉱石は、決まった手順、時間を経てからでないと素晴らしい金にすることはできない。
その作品がひとびとの記憶に残る創造者たちは、すべからくそんな秘密を体感し、体得している。
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前回の項に、1995年発行の哲学入門書のことを書いた。
いささか発行年度が古いように思われるその本(哲学の場合はあまり古いは関係ないとおもわれるがしかし)を購入したのは、そこに「1995年の池田晶子」を発見したからである。
最近は、池田さんの本に本屋で出合うたび、そこに池田さんがたたずんでいるように感じるようになった。
別に池田さんの幽霊、というわけではないのだが。
池田さんの残した文章が、池田さんの魂の一部であるように思われ、そこに池田さんの気配を感じるのである。
だから、自分の持っている本(基本的にはほぼありますが、勿論)とおなじだと、なにか池田さんのクローンに出会ったような妙な気持ちになるのである。
まあ、SFにどっぷりの時代を経ているからしょうがないが。。。
決定的だったのは、1995年当時の池田さんの近影があったことだ。この頃は”帰ってきたソクラテス”を上梓されたあとだと思うが、ご自身で”哲学の巫女”を称されていたころではないかと推測する。編集者もそのあたりを意識しているのか、遠くを見つめるまなざしと、すこしウェーブした髪が、まさに巫女を思わせる。
僕の印象では、この巫女時代を経て、41歳の哲学のころには、神が降りてきて現世にあるような融通無碍感を漂わせているように感じる。大峯顕氏の言葉でいう”菩薩”化といったほうがよいかもしれない。
いささか宗教めいた表現になってしまったが、こうした妄想を許してもらえるのも、”教祖となったら筆を折る”とおっしゃった(たしか)池田さんの手のひらを感じるからである。
そこで池田さんはおっしゃる。なぜ哲学なのですか、と。
考える、のしかたを考えるための哲学であることをわすれるな。
文末に近いところできちんと読者に伝えている。
さすが、というしかない。
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掲載したのは、新版のほうだが、購入したのは旧版のほうであるので為念。