自分のなかに入っていけばいくほど、自分からはずれていくのである。真の自己を求めて内へと向かうにつれ、見出すのは世界だけである。
ケン・ウィルバー 「無境界」(P.105)
池田晶子さんは、好んで読者からのメッセージを読まれたようだ。
もちろん、そのメッセージは、いわゆる”池田さんの魂”あるいはそのお心に
ついつい届いてしまうもの、ということだったろうが。
そのなかに、自らが、人が、風である、と認識した手紙があったように記憶する。
そして傍らには描かれた”メビウスの帯”。
池田さんはまた、折に触れ歴史に立ち戻るようにその著書でおっしゃった。
しかし、いわゆる世間でいう、
”歴史から学べ”
という言い方とは、どことなく肌合いが違っていた。
池田さんはおっしゃる。
あの戦争にまきこまれたひと、戦火に散ったひとは、わたしであったかもしれない。
!
過去の人が、わたしであった?
この池田さんの感覚が妙に残っていた。
池田さんは、”教祖になったら、終わりだ。自分は筆を折る”
ということもおっしゃっていた。
いわゆる現代でいうところの”宗教”というものに、一定の距離と厳しい批判をなさっていたと思う。
これはつまり、池田さんの仰りたいことが、いうだけで、そのテーマを選ぶだけで、
”宗教だ” ”教祖だ” と言われる可能性を考慮なさっていたのではないだろうか。
池田さんは、自らを”哲学の巫女”と称された。
その口を通じ 神の声、神託いや、真実を伝える。そのまま、哲学、と称される真実を伝える。
たまたま地球に、日本に、”池田晶子”某 として、
いるところの ”これ” が。
その時に、その口から発せられる言葉は、仮にあの”宗教”が、この”新興宗教”が
云い云いしていることがらと似ている、あるいは対象が同じであっても、
そこにべっとりと染みついた”臆見(ドクサ)”を
のぞいた純粋な、本来の、原初の意味でただただ伝えるのみである。
そのまま。変えず変わらず。
そういうことだと理解している。
そんな池田さんがおっしゃる歴史、
歴史のあの人は、わたしだ。
これはいったいどういうことなのか。
いや、過去の別人がわたし、って、変でしょう??
と思っていた。だが、池田さんはそんなことを簡単におっしゃるわけがない。
なんなんだろう?
あるいは駅で、列車にのる行きかうだけの”縁”の人々。
それはわたしだ。
そんな文章も引用されていた気がする。
どういうことなのか。
すべては一である。一はすべてである。
仏教で述べられることば。
宗教、といってしまえば逃げたくなるこの日本国。
宗教が”宗教”となってしまうまえの契機は、
そこに真実があったから。
その真実を、ある人から聞いた人々が、
”これは真実である。かけがえのない、真実である”
と、とるものもとりあえず参集し、その傍らに居たくなってしまった。
ただ、その人が亡くなったあと、あるいは本人が、あるいは傍らの人が
残した文章、を通しその真実を伝える。
これが当たり前の宗教の成り立ちであったろう。
であればこうして池田さんの書物を通じて真実を聞く、
これこそ本来の”原始宗教”である。
だがこの”宗教”の語、ドクサまみれだ。
だからおっしゃった。私の口から真実を伝えます。
わたしだからとか、個人がどうこうはありません。
真実があるだけです。
これが池田さん流の”ドクサ取り”だ。
ついつい絡み取られる”ドクサの罠”。
これに捕まらずに真実にたどりつけ。
そんな池田さんの思いも感じる。この退避装置こそ”巫女”という言葉であったのだろう。
過去はない。未来はない。
過ぎた出来事はある。だが、
過去、というと過去が後ろにひっついている気がする。
違う。
過去を過ぎた、いまの自分があるだけ。
自分、もまた、
瞬間のなかの、全体としての、自分、なのだが。
全体であり、永遠の瞬間であるところの 一部ではある自分は
なるほど、あの戦火に散った若人である。
駅で行きかうあの人でもある。
そしてあなたでもある。この猫でもある。このコーヒーカップでさえある。
水滴、分子、大きい、小さい。
すべてが一。
そこに優劣は、無い。
差異は、無い。
境界は、無い。
歴史から学ぶ、
池田さんがおっしゃったこの言葉の肝の部分は、
たぶんそんなところではないのかなあ
といまは考えています。