夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

務め。

”すべての私の著作は、私の内界から課せられたつとめであるとも考えられるだろう。”

ユング自伝 P.30

”情欲(パッション)の地獄を経なかったものは、また情欲を克服することもない。”

引用同上 P.108

いつどこでも誰にとっても「正しい」もの、「正しくないもの」これが「真実(イデア)」。”

陸田真志池田晶子 「死と生きる」獄中哲学対話 P.38で陸田氏は述べます。

引用になりますが、同じくP.38から。

「俺の生命(いのち)は俺ではなく、俺の体も俺ではない。俺は俺という考えそのものだ。俺のものが真実(イデア)であり、皆同じ一つの存在なんだ」

池田晶子さんの著作、プラトンの著作を通じて、陸田真志氏はこう理解します。このことを”わかった”といいます。いわゆる仏教で言う”悟り”でしょう。イデアとの邂逅、ともいえるでしょう。

そのことを、そのことだけを池田晶子さんはその著作で述べるのです。いつでも同じことを言っている。私はそれしか言ってない。

別にそれが人のためとか、理解してもらおう、といったことからではありません。すでに”個”はないのですから。しかし、無い、もない。ある、は無いがあるからある。

存在のあざなえる縄の如き不可思議。

そこから立ち上る真実をただ巫女、として、真実を伝えるただの”口”として、池田さんは伝え続けたのです。


それを受信すること。これは全員にあるSPECではない。それがあれば偉いとか偉くない、ではない。それを受信すれば、”選ばれたもの”になるわけでもない。

ただ、”わかる”がそこにある。

そのことを知るかどうか、ただそれだけ。


基本、なんにも変らないのです。


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東京に住んで約1週間、リズム作りのため、朝ファミレスに入る。
30分ばかり、新聞を読んだあと、本を読む。

前にも書いたが、基本的に持ってきたのは池田さんの本のみ。きちんと読み返したいな、と思ってのことだ。

そしてすでに”この世には肉体の無い2つの魂”の稀有な邂逅、魂の触れあいである往復書簡、”死と生きる”を読んでいる。

1960年生まれの池田さん。1970年生まれの陸田氏。

10歳の歳の差である。38歳と28歳の魂。


わかった魂とわかろうとする魂。わかろうとする魂は既に池田さんでわかってはいるのだが。更に。もっと。


池田さんがどこにお住まいであったのか、土地勘のない僕にはまだよくわからない。代々木公園?(いったことはたぶんないのだが)でマラソン?をされていたような記憶があるので、その近所であったのだろうか。

そんな気配を感じながら、東京のファミレスで、池田さんと陸田さんの息詰まる書簡を読んでいる。


書簡は加熱している。わかりそうな、生まれ出でんばかりの魂。それをあたかも”魂の産婆”のごとくアシストし、伴走する池田某。

それをこうして2014年の今読む。時間とはなにか。そう思う。時間が経ったのか。いや。

この思い、2500年前のソクラテスの思いと直結している。15,6年の年月なんて、まさに”屁”みたいなものだ。

固体ではない、気体程度。

昨日のできごとですらない。この、本のなかで、今も、燃え盛っている。書簡が飛び交って、いる。


それを読む。コーヒーがぶ飲みだ(笑)。

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話

えー、転勤後、初めて帰省?というのか、家に帰っている。

昨日は、亀の水かえ!と庭の伐採。1年でこんなにも木が、草が生えるのだ!!

まだ日中は蝉が鳴いている。がんばれ。