”無限を思考する能力が、それ自体である「私」。”
池田さんは、一言で世界を網羅される能力をお持ちであったと、改めて感じる。こんな言葉に接すると。
”「創造」は「完璧な無私」と「純粋な欲望」によってのみ、その”場”としての人間の中に、あるいは手によって、生まれる。”
池田晶子 事象そのものへ! P.68
池田さんの著作に触れる前は、僕の中では”視覚>言語”であった。あったのか、願望であるのかは、あるのだが。
だが、池田さんの著作群に接して以来、”視覚≦言語”であることをまざまざと、幸せな敗北感をもって、感じることとなった。
幸せな敗北感、といった。いわば視覚国の住人が、それこそを唯一の信念として生きてきて、言語の姿を見ずにいた。そこへ”言葉”の本質を、池田さんが、その著書で、示された、ということだ。
占領された。占拠、された。あるいは、”思い出した”。
ああ、そうなのだなあ。
そんな、感じになった。
負けた、という形かもしれないのだが、余りにも提示された世界が、本質的であることがわかりすぎて、それだけで、頭が、存在が、魂が、いっぱいになったのだ。
これは、”打ちのめされる”にも似ている。ランボーに打ちのめされた、小林秀雄のような。
なんと幸せであろうか。私が、この魂は小林と比べ仮に進化未了である、のかもしれない。だが、打ちのめされる、ということを経たのは、”同質だ”。
そういえば、池田さんにとっての小林も、そうなのかもしれない。もっと、深いのだろう、日本人的謙譲の、同質強制?の強い社会の表現規定に沿っていうのであれば。
でもしかし、あえていう。同じですよ、と。
受け取る側が、どんな”SPEC”かは、この際関係なしでいいんですよ、と。
すごく厚かましいようで、すごく幸せな、真実である。