美、というものについて考えている。
”美”を感じるには、たぶんパワー、心あるいは魂の、パワーが必要な気がする。
ということは、”美”は”生きる”にとって、本質に極めて近いところにはあるが、本質には属さないものなのであろうか。
つまり、”あったら嬉しいが、なくてもいいもの”なのだろうか。
そこにはあの、”生きるために食べるのか、食べるために生きるのか”の問題と同じものがひそむようだ。
生きるために食べるのであれば、ではそれはなぜ?なぜ生きる??
それは、”善く生きる”ため。
それが、池田晶子さんから、僕が学んだように思うことだ。
池田さんは言う。別にこれは池田某がいうのではない。真実が自分の口を借りて言うものだ。真実が、言葉が、自分を使役している。それでいい。それが本来の姿だ。
だから私は自らを”巫女”という。”哲学の巫女”だが、”言葉の巫女”でもいいだろう。
”巫女”がそもそも真実の言葉を伝える、自らの意思を持たない、あるいは神託時にはそれを喪失するものの云いであれば、”言葉の巫女”という言い方はそもそも”頭痛が痛い”というのと同じだ。
それはいい。
で、”美”。
これが生きるに必要かどうかだった。
美は、真や善と連なるもの。それが前回の(仮)結論であった。真実に生きるために生きること。それが”善”。そしてそれを客観的に見たときの外観こそが、”美”なのではないだろうか。
であれば、真実を求め、善く生きれば、それこそが”美”といえるのではないだろうか。
では”花”は?”花の美しさ”といったときの”美”は?善さを花は求めているのであろうか。
いや。そこに意思は無い。言葉に意思(=個人の)が無いのと同じく、美があるところは”無私”だ。私、は、無い。
そうあるしかない、そうであるものこそが”美”。それは”言葉”や”善”と同じ、根源性を持つものなのだろう。
だから、”花”や”なにか”が美しさを持ってはいても、それは”美”の一体現である。真実が現れるところ、それは全体の真実の一部であるが如く。
なんんとなくそのような感じで考えている。
これは例えば小林秀雄の結論と同じなのであろうか。よく、わからない。同じ、かもしれない。違うのかも、しれない。
考えることの”滋味”を語ったのも池田さんだが、たしかにこんなことを、こんな”考えてもせんない”ことを、考えるのこそ、考えるの、本質なのかもしれない。
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池田さんといえば、卒論に”龍樹”を選ばれたとのことであるが、それも思い出しながら”悟りへの道”をぱらぱらめくっている。
この本、たまたま105円で入手したのだが、実はなかなか入手困難な本のようだ。
それとこれを図書館で借りた。
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最近借りた小林秀雄の講論CDを聞くと、小林はユングを高く評価している。これは、意外だった。
宗教にひそむ真実、学問にひそむ真実、といったものに、本物の精神はすべからく感じるのであろう。
それが、”秘伝”というもののことなのかもしれない。
そこに行き着ければ。。
いいなあ。。。