夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

普遍。

言葉は普遍だ。


こうして言葉を書く。

その時、書かれる、普遍としての”ことば”は、僕のこの手を手段とし、このPCの画面、という場に”たまたま”出現しているのである。

これがPCでなくば、例えば”詩”。絵筆を持てばそれは”絵”。歌として歌うこともあろう。木や石を前にすれば、”彫刻”となることもある。

みんな、同じ。結果が、表現が、見た目違うだけだ。


僕が普遍を捕まえている、”すごい知性”であるわけでもなんでもない。すごい、という個人は、ない。

すべての人の、すべての言葉が実は普遍から来ているのだ。

だが、そこに気がついていないと、常識やドクサ(臆見)という要素がからみ、”この言葉は自らが生み出した、みずからの”神”が言わせている”、という意見も言いたくなる。

神がうちにある。神が外にある。

そういう神はどこまでも、死と生が弁償法的統一、という名のあざなえる縄の如き状態にある”私”というものが、あくまで感じ、言わせているものでしかない。

”しかない”といったが、その状態が残念な状態であるとか、逆に素晴らしい状態である、といっているわけではない。

それは、そのように、ただ、あるだけ。

そこで、その状態の不安定さにたぶん耐え切れずつぶやいてみたことばがたぶん”神”という考え方。状態。

ひとはすべからく”状態”である。

であれば”神”もその状態を表したもの。

”現世の神”ということで、グノーシス派はその神を一段低い”被創造的神”と呼んだ。そしてその上に高度な神がある、と。

ここで”神”の名を出せば、どうしても”人格的な白鬚の老人”が浮かんできてしまう。あるいは光り輝く、アテナのような存在を思う。

でも、そうではない。いわばその神も状態だ。生も死も状態だ。

この世、というか、これ、は状態だ。

状態こそがすべてだ。


・・・昨日宗教に関する”朝まで生テレビ”を見た。池田晶子さんがそこにいらっしゃった。

テレビ初登場、ということだった。

池田さんは圧倒的な存在感でもってそこにいらっしゃった。すべての回りの人間が、池田さんを回る衛星であるようにも、感じた。

もちろん、この感じ方は、僕が池田ファンであるから、という要素もあるだろう。投稿された画像も、池田さんを中心に編集された、ということもあろう。

しかし、宗教。池田さんに宗教を語らせたら人後に落ちない、というか、宗教の仕組み、からくりはすべてお見通しであった、と僕は思っている。

だからぶれない。

景山氏と犬のうんちの話をする。麻原もいる(しゃべっているのを初めてみたが、けっこうふつうのしゃべりだと感じた)。でも、池田さんは、いつもの通りのぶれないあの池田さんで在りつづけ、その口を借りて出てくる真実としての”ことば”を、ただ伝えていただけであった。

ただ、伝える。言葉の通路。回路。だから、自分は”巫女”と自称します。

いつもの通りであった。文章で書こうが、TV出演で喋ろうが、真実は真実としてあり、そうであることしか、実はできない。


出演者は、どう感じていたのか。なんとなく、遠巻きに、”あそこに真実がある”ということを感じながらそこにいたのではないか。

みんなそこに真実が真実としてあることを、実は感じていたのではないだろうか。


ああ、この人は真実を真実として言うことができるひとだ。そんなひとが来ているぞ。


なんとはなく、そんな感じを出演者が感じているようにも、思った。ちょっと、ビビッて(笑)。



結論、出ているな。

夜中じゅう、議論することは別にないような気さえ、してくる。

朝までの議論、いらない。


”一瞬生テレビ”で十分だ。

・・・でもそれでは番組が成り立ちませんね。。



テレビ局は知らず巫女を招聘し、その口から真実を聞いた、のだ。


ああ(笑)、こうかくとなんだか宗教じみてくる。この”宗教じみる”ことが、例えばドクサの生み出すもの。”生活の糧”としての宗教、の臭み、だ。これは、ものを書くことを生業にすること、と同じ臭みだ。

池田さんは、金を儲けるためにものをかくぐらいなら、ほかにいくらでも金を稼ぐ手段はある、といって、その決意なきものの意識を問うた。

言われた人のなかには、”それを言われちゃおしまいだ”とわかる人も、実は多かろう。作家、という覚醒した頭脳が必要な人ならなおのこと。

だから、生前池田さんに議論をタイマンで実施しようとした人がいなかったのだろう。かかってらっしゃい、といわれれば、かかっていけなくなるものでもあろうが(笑)。


たしか、議論になりかけたのは、”ソフィーの世界”の翻訳者の方とのみであったように思う。しかし、それも相手はそういわれると”わかる”。

これは勝てない。

真実と真実について語り合えることはできても、議論にはならない。

池田さん、かかってらっしゃい、といいつつ、実はその状態をお互いに持とうとされていたのではないだろうか。たいへんに、面倒見の、よい方であったと思うので。



みんな、実はわかっている。


その魂の奥では。



”胸に手をおいて考えてみろ”という古い箴言がある。
その言葉に含まれる叡智が伝えようとしていること、それは池田さんがその生涯、その書かれたもの、でいつも伝えようとされたことが、含まれている気がする。

みんな、胸に手を当てず、賢しらに”自分の考え”を叫びあげている。だから、伝えなくては。

実は池田さんはそのような使命感をお持ちであったような気がする。


朝まで生テレビ、池田さんのそのたたずまい、眼光、万年筆(笑)、に、永遠のイデア、ともいうべき美しさを見た。それはその口を通して語られる真実が、その出口を光輝かせている所為なのかもしれないい、などと考えた。



ゆかさん、教えてくださって、本当に感謝しております。