夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

春を待つ、今を感じる。

2007年2月23日午後9時半。

池田晶子さんが亡くなられた日が、また近づいて来た。

9年目に入る。9年。長いような、あっという間のような。

その間に、世間でも、個人でも、さまざまなことが起きた。。

。。気がする。だが、果たしてそうか。


見方を変えれば、なべて世はこともなし

ということなのかもしれない。


いい、とか悪い、ではなく。

あまり、人の心は変わっていない、という。



忙しく、なった。心の自由は、より侵食された気がする。

意識して、心の、魂の、世話をする必要は、あるようだ。



”宗教というのは、形態や教義はさまざまあるが、基本的には、信者に死の恐怖の克服を説くものである。”

 P.82 人間自身 考えることに終わりなく 池田晶子


池田さんに教えていただいたことを、自分なりにまとめてみると、現在はこのようだ。つまり、

 悩むな。考えろ。

 過去も未来もない。あるのは今だけ。

 魂を考える

 死を考える

 生きながら、死を考える。これほど甘美なことはなし。甘美なる”死後”。


思いつくままに挙げてみた。池田さんは、前出引用のとおり宗教とは死の恐怖の克服を説くものだ、とおっしゃっている。

つまり、死の恐怖があり、それをどうにかしたい、という”悩めるタマシヒ”たちが顧客である。

ではこうかんがえたらいいですよ。ほら、こわくないですねえ。

そこの時点で金品を吸い上げる仕組みがあると、エセ宗教といえるだろう。そこの仕組みに”ありがたい”教祖が組み込まれていれば、教祖=詐欺師、となる。

そうした仕組みと集金装置が、古代よりはびこっている。だから、”宗教”の語にこびりつくドクサ、これがどすぐろくゆがむのである。

だが、池田さんの著作を読むと、死、という事象に魂として向かい合うことになる。そのとき、向かい合っている”これ”はなんなのか、と”考える”ことになる。

ここに至る所作、を池田さんは提示くださったのだ。

そしてその構え、多分”四聖”と呼ばれる人たちの構え、と相通じている。

とくにイエス、そしてブッダ


いまの時代に四聖の教えを伝えるものは、その後の一般の人々の理解と思惑にまみれ、変形しているといえるだろう。もちろん”中興の祖”、4人の考えを足がかりにさらなる高みに到達せん、とした後進の魂はあったことであろう。だが、なかなかに難しいところであるのも確かである。

多分、”安心を得たい””だれか教えてください”という部分が弱いのだ。だから”喝”る?

”悩むな!考えろ!!”


そのことば、厳しい愛に溢れている。厳しげなやさしさの極地である、ともいえよう。

慈愛、ということばが口を突く。



池田さんが”菩薩である”と表現されたのは大峯顕氏である。哲学の巫女、と自ら称されたこともある。

共通するのは、“真理に繋がる魂”である、ということであろう。この人は扉ですよ。学び、みずから感じなさい。

そんなふうにおっしゃっているような

気がいまは、している。


まだまだ、ではある。”私”が”この世の今”を今しばし感じている時の間、”池田晶子”という”某”の魂を、全体を感じつつ、過ごさせていただこうと、思っている。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、いまこの本を読んでいる。

身体と魂の関係性は、”宗教”や”死”を考えるときに重要になる。

この書で知った考えは、”インナーボディ”。

これは、魂、と共通する部分であろうが、どちらかというと、”魂の身体と接している部分”、あるいは”意識しやすい=しっぽをつかみやすい魂”ではないかと思っている。

禅、では内観、という作法があると聞く。その作法に、通じるものがあるようだ。

魂を通じて身体を感じる、といえばよいだろうか。



池田さんの教えに近しい考えもあった。


つまり

今しかない。今を感じる。過去も未来もない。

魂は全体のなかの一部である。


また、呼吸を通じて今を感じる、という手段は、座禅中の所作に通じている。

昨年2度ほど経験した禅寺での座禅。吐く息を感じなさい。10回数えなさい。

そう教えられた。


いま、僕が感じていること。


昔、手塚治虫の”リボンの騎士”のなかよし版(確か)。

冒頭で神がサファイヤの魂に語りかける部分がある。ここが結構印象的だ。

つまり、”個人の?”魂は、大きな溶解炉の中ですべてに繋がっている魂(集合意識、これは生物に限らない)の一部が、ぷちっと千切れて、身体に”期間限定で”入り込み、その”生”の期間にその生の意識を、刻み込む、という仕組みにある、ということだ。

これはもちろんイメージ。そしてそこに”誰かの”意志があるわけではない。表層的には。

ただしその仕組み自体が、”意志”である、と言えないわけではない。

それが”神”だったり”宇宙”だったり、ということも、あるかもしれない。


これはなにか。ビジョン?死生観?


よくわからない。わからなくともよし。


だが、”今”を味わう。美を味わう。真を、善を、全身で受け入れる。

そんな気持ちを持ちたいなあ。。



それがいま、僕が池田さんに、お話させていただきたいことである。


さて、どんな風におっしゃることやら。



たぶん、”そうですか”

”引き続き考えてくださいね”



そんな風におっしゃるような気がする。

既に池田さんの享年を大分超えた肉体となった僕に。



ん、”年老いたかつての弟子が、年若いままの師匠に、長い年月を経て出会い、涙する”というビジョンが、いま来たなあ。


いやいや、では今日はこの辺で。

mamezouya.hatenablog.com
mamezouya.hatenablog.com
mamezouya.hatenablog.com
mamezouya.hatenablog.com
mamezouya.hatenablog.com