夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自分とは、個性とは。

日本の教育では、並外れてできる人間も、組織の中で目立つことを恐れ、組織も目立つ人間がいると、あたかも階級社会(自分に関係のない、先天的に与えられているもの)や格差を助長するものである、という感覚、言ってしまえば醜いそねみ、というべきものがみんなの心に自然に去来し、ずるい、(何が?)という感覚になり、その人間のバッシングが始まる。あるいは、行動にでなくとも、少なくとも我々の仲間だ、おまえの能力をとことんのばせ、という感覚は出てこない。勢いそういう人間には冷たくなる。仲間だよ、というサインもない。たとえばその人間がいい点をとったとすれば、腹が立つ。そのあたりは、そういった人間は当然勘もするどいから、隠れようとする。自らのとがった能力をより磨こうとすつことはない。
梅田望夫氏は日本ではこういった状態で結局できる人間がよりできるようになろうとしない、そのことを結果的に楽をしていると評し、シリコンバレーでは、それはまったく逆の状態で、お互いがその能力を認め、とことん伸ばそうとする文化があるし、アメリカという国は、結局自分たちのリーダーは、本当に能力のある人間がやってくれるものだ、という理解と希望と認識がある、とみんなが思っている、というようなことをおっしゃる。
直接大統領を選ぶ、ということは、そういうことだ。日本では、直接首相を選ぶことができないが、本当にできる人間がいて、そういう人間を認め、選ぶことができるつよさ、いわば自分は自分でしっかり持っており、自分に対する肯定感があるから他人の"自分より優れた能力"をねたみ、そねむことなく認めることができることがないと、結局は自分がよく知っている人間(たとえば、島田伸介)に代表になってもらおう、ということになる。もちろんアメリカでもそういう人間ばかりではないだろう。有名であるほうがいいだろう。しかし、その根底に流れる、自分というものへのことさら意識していない信頼感、人を信じても、それが自分の個性を侵食するものだ、という意識にさいなまれることのない、自信、のようなものの有無の違いが、日本という国とアメリカという国の違いであろう。だから外国の人は日本で阻害感を持つのではないか。自由であろうとする精神は、この国ではちょっとでしゃばりであり、あつかましくあり、えらそうにしている鼻持ちならないエリート野郎、ということになる。このエリート、といことばを日本人は発するときの語感はどうだ。おまえはえらそうにするいやなやつだよね、と言っているのである。"脳を活かす勉強術"の中で、茂木さんが、英国では、異常で、とがった人材をことさら排除するわけではなく、大学に終結させ、アウトプットをさせる仕組みを作ったところがえらい、その異能者が集うケンブリッジから、ノーベル賞受賞者が輩出されている。ということを述べられている。残念ながら日本にはそのような仕組みがない、とも。これも同じ理由であろう。
なぜ、日本ではそのようになりやすいのか。
考えていて、池田晶子さんのことばを思い出してみた。

他人、に対する考え方、教育、というものが関係しているのではないか、と考えた。

個性をだせ、オンリーワンになれ、という教育。
なにがわるいのか、となるが、前提は"おまえは自分というものがない、あっても未熟だ"というもの。
自分がない、という教えである。
池田さんは"ソフィー"の自分探し、というものを大変批判なさっていた。自分を探そうというその自分が自分じゃないの、と。自分が自分であることの不思議をまずは初期条件としてきちんと認識し、みずからそうあるべきものであれ。そんな風におっしゃっていたと理解している。
日本人はそこの条件ずけがおかしい、そのおかしさを魂はやっぱり感じていて、その気持ち悪さが、政治というものに対し関心がもてなくなるおおきな理由であると考える。
アメリカ人やイギリス人はそのあたりが、ちょっとちがっており、それはそのほうが魂はまちがいなく気持ちよい。他人を尊重することは、自分を尊重することと同じなのだ、"他人とは自分における他人である"、リマークのなかで池田さんが語ったことばを思い出す。

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