夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

言葉。

自由とは、自分に対してのことのみである。

他人との関係において”自由”を求めることは本来無理なことである。

描くこと、書く事、それらの行為において、他人を意識せねばならないものは本来のそのものではない。

・・・のかもしれない。


池田晶子、”無敵のソクラテス”(完全版)P.145から。

ソクラテス いや、逆だ。言葉狩りをさらに徹底せよ、と僕は言いたいね。作家の仕事とは黙って書くことだ。社会に意見して騒いでいるようなのは、まず作家じゃない。自分の欲しいものを他人に求めるのは卑しいことだと、僕らは同意したね。僕は、そういう卑しい物書きから、言葉を取り上げてしまうべきだと思うんだ。「卑しい心で言葉を書くな」とね。言葉を守るとは、本当はそういうことだ。作家が特権的になれるのは、自分の言葉をもったときだけだ。”


池田さんがソクラテスなのではない。

ソクラテスが池田さんなのではない。



しかし、卑しいという意味を本来の意味であるとおりに把握できる心、これが案外と難しいし、忘れてしまいやすいのだが、その心をもっていることを、ソクラテスというのか、池田晶子というのか、そこには区別も差別も!ない。

という意味においての一体感は、あるのだろう。


モノを作り出すことで、その点はすごく大切なことなのだ。



でも池田さんの言葉を読んで、やっと思い至るのは、なぜなんだろうか。


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IT の次は、不老。


ええっと、別の話で。



世にITは蔓延した。蔓延、ということばには、”それが蔓延したことは余りよくない”というニュアンスを若干でも含むので、では”ほぼ完成した”でもよいかもしれない。

ここでいおうとしている、ITとは、たとえばいわゆる”魔術”や”超能力”の名で”一般人には無理ですよ”というニュアンスのあった行為が、多くの人類に可能となったことを言おうとしている。

ITによって、遠くの人間に、意志を伝えることが可能になった。

どうやって?


ほら、”電話”ですよ。あるいは”メール”ですよ。


ええっ?


なんにも不思議はない、どこに”魔術感”があるのかな?

どこが”超能力”?



ハリポタ映画を見れば、画面の過去の大魔道師が壁面の額縁で動いている。

これはほら”サインボード”。


ひとつも不思議じゃない。

サインボードですよ??



ひらけゴマ、ってありますね。


あれ、自動ドア。




うーん、確かに勝手には開くけど。

あれは”キイワードを知っている人だけに開く特別感”がセットだったはず。これもちょっと違うなあ。



まあ、それはそうだ。魔法や、超能力は、すべからくそれを持った個人のみへの恩恵であった。


そこのところ、”万人に与えられる感”が魔法や超能力である、というイメージを想起させないのだろう。

まあ、そこはある。


だが結構いろんな魔法が実現しているのではある。

ITでは、テレパシイ。多くの人に自らの意見が伝わる。


翻訳コンニャク。


翻訳ソフト。名前を”コンニャク”に変えればいい。


まあ、精度はいまいちだが。これは進歩することはわかっている。



アトムは自我で悩んだ。ロボット3原則。ロボットに意志はない。


ん??意志ってなんだ?



区別できるのか?



それらしく反応するものに、意志があるのかないのか、本来的にわれわれに識別可能なのか????


魔法が、当たり前田のクラッカーのように、目の前で、自然体で実現していっている。


そして、そこに特段のありがたみもない。


自明の進化として、やってくる。順序を経ているので、そこに不思議感はないのかもしれないが。


これから何十年かすると、ITの進化が人間の思惑を超えるときがあるという。


それは、ITがコントロールできないこと、ITに管理される人間社会がディストピアとして夢想されてきたのだが、それがごく当たり前のこととして、到来するのだろう。


不思議は、ないだろう。


多分、ロボットは”意志を持つ”。


他人が生きているのか、死んでいるのかが、”意志”を”意志”と呼ぶ基準であるのなら。


まあ、取り急ぎ一つくらい”臓器”をぶち込んだ機械を作ったのなら、それが”生きている”のか”死んでいる”のかの区別はあいまいとなる。



臓器は、たしか、培養できるんですよね。


豚の臓器でもいいのかも。


ああ、”故人の意志”をコピーした、豚の臓器をいれた”亜人間”。


いまはブラックジョークかもしれないが、これは来るなあ、確実に。

なかなかめんどくさい、問題かもしれませんね。



医学の倫理観、という。そこに宗教性があるのかないのか、とも。


ここでいう”宗教性”は単に”抑止力”の意味なのかもしれない。

”禁忌”という意味での。




そこで、”不老”。



IT長者が次の投資先として選んでいるのは”不老マーケット”。


たしかにそうだ。


”魔力”を半ば得た人類は、次はまじめに”不老長寿”へと挑む。


もうすでに、その”挑み”は始まっている。



いいことなのか、悪いことなのか。



そういう判断のない世界で、既にスタートしている。




八百万の神のいますこの日本で、それはなかば”野放し”状態で、”ガラパゴス進化”するのだろう。



それをとめることは、不可能である。



とめる必要があるのかないのか、それは進化している途中で、考えながら状況に対応してゆく、


それがこの日本国の作法なのであろう。



いやあ、なかなか大変ではある。