夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

桜の季節に。

人生は、過ぎ去って還らないけれども、春は、繰り返し繰り返し来る。一回的な人生と、永遠に巡る季節が交差するそこに、桜が満開の花を咲かせる。人が桜の花を見たいのは、そこに魂の永遠性、永遠の循環性を見るからだ。それは魂が故郷へ帰ることを希うような、たぶんそういう憧れに近いのだ。
              池田晶子 「暮らしの哲学」 より

今年の桜は従来になく長く楽しめた。さすがに今週は葉桜となった木が多いが、丁度今桜吹雪が舞っている、桜の花びらがアスファルト、あるいはコンクリート敷きの地面に驚くほど散っている景色を見ながら帰宅した。

人は生きている、という奇跡に気づき、そしてそれが有限であるという当たり前の事実の前に孤独に対峙せざるを得なくなったとき、目の前の植物に眼が行くのではないか。池田さんがそうだ、というわけではない。正岡子規の俳句を見てそう思った。

池田さんにとっての桜は、もう少し複雑であるのかもしれないが、桜に象徴される植物が、循環性を持つという事実、そして一年ごとに桜はその花という遣り方でその事実をあからさまに示す存在であるという事象。目の前での短期の始まりと終焉。いきものでいうのであればカゲロウか。桜の花に、あるいは虫のなかに、人はみずからの姿を見つけて詠嘆するのだ。嗚呼、と。言葉にならずただ息のように。ため息のように。

バインダー式のちいさなノートに、日記をつけている。日記でもあり、気になった文章を抜書きする場でもある。目で読む、という行為とそれを書き写す、という行為は似て非なるものだ。やってみると大きく隔たったものであることがわかる。

川上未映子さんの対談集、「六つの星星」を読んで、川上さんが初めて小説を書く事を求められたとき、ぜんぜん書き方がわからなくて、多和田葉子さんの「ゴッドハルト鉄道」を一言一句書き写した、ということがあったのを知った。そしてそれは幼稚園のころの”ドラちゃん”ことドラえもんで行って以来であることも。そのことは楽しい記憶として藤子F不二雄全集のあとがきにも記される。僕自身もドラえもんや、山田章博の漫画を模写した経験から、深い共感を持って頷くことができる(但し自分の場合は1ページのみであったが)。

書き写して見ると、読む時間に比べて、作者がその文章、或いは絵を生み出すのに必要な時間に近しい時間を過ごすことにより、その文章や絵の味わいが作者的に把握できる気がする。勿論手が覚える、脳以外の知覚を持った存在であるかもしれない手が、手自身の感覚でそれを理解しているような感じもまた、ある。

手が歓んでいる、理解している感じもあるのである。

他人に興味がないので、他人の書いた文章を読まなくなった、というような指摘を「文学の門」で荒川洋治氏はしているが(氏は詩、歌について述べられるのだが)、他人である、という事実を意識しすぎるのではないか。池田さん流にいけば、他人とは自分である。逆は言えないが。であれば他人が書いた文章も、絵も、”本を読んでは、そこに書かれている「意味」のみを抽出し、それをもって、自己の「考え」のほうへより考えを凝らす。そして読んだ事実のほうはきれいに忘れてしまう、”(”私とは” 池田晶子)という、書かれた事実を事実として掴むという遣り方、真実は誰が書いても真実だ、そのような文章を1000年先に対して書き記した池田さんの遣り方、に通じるのではないだろうか。

六つの星星

六つの星星

暮らしの哲学

暮らしの哲学