家族とはなにか。
現在の自分があるのは、生命としての自分が生まれたのは考えてみると奇跡のようなもの、危なかっしい偶然の産物であるといえる。誰も生んでくれとは頼んできたものはおらず、死ぬまで生きている。
過去になにかの偶然があることで自身が今ここに在らなかったことは誰でも実は心の中で感じており、それがタイムマシンモチーフのストーリーがひやひやさせつつ好まれる理由であろう。タイムマシンを見ると自らの現存在が薄氷を踏むようなものであることをひやひやと感じるのである。
では家族が繋がって存在するとはなにか。結局は自分のため、ということかもしれない。自分のために自分の子供に自らの資質を、経験を、意志を、拘りを残したい、というものがその基本である。従ってその拘りが少ない家族は崩壊しやすい、あるいは成立しにくい。
今この自分の欲望、それを遺贈するという形で子供に遺すよりは、別のより即効的な充足のほうが自身にとってよりよいものだ、と感じるとき、人はわざわざ家族を成すものだろうか。かずかずの宗教がタブーとしてきた行為は、その事実が実感されない若い世代(そして往々にして家族を為すという行為はそうした若い世代が行うものである)が知らず知らずにそうした遺贈をおこなってしまうよう、家族の、人間のありかたを織り込んだ仕組みである気がする。
特にキリスト教。
生き物の結局の一番の希望は永遠に生きることであり、肉体的にそれが不可であるからして、自らが自らの中で最も遺したい資質というものを、一番遣りやすい相手としての子供に、遺すことが一番自らの魂が喜ぶ、といったレベルの歓びであろう。
そして自らの子供以外にそうした思いを与えることが出来た人間が、よき教師、なのであろう。
理想の政治家、というものの心持を想像するとするなら、不特定多数に対して、技術としてよりは実感できないボンヤリした形で、そうした自らの遺贈したいような良い資産・資質を、与えることに歓びを見出すような存在であり、人類の教師、というものである。
それは困難であり、最早政治家、という言葉を超え、”真の宗教人”といった存在しか思い浮かべることができない。
しかし、そういった志しを持った人間が目の前にいるとき、ひとはそれをわかるものだが、活動のはじめのころは多分わかりにくい。
選挙というものはそうしたわかりにくい萌芽をひそめた人間を選び出す仕組みであるべきだろう。
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宇宙とは、自己認識する魂である。
これを裏から言えば、
魂は、認識する宇宙の容器である。
例えばこの本で池田晶子は将棋の羽生名人の天才を考えることを通して、魂のあり方を論じる。天才を天才と知り、その孤独を感知することが出来るのが天才の所以である。天才とは世間では”能力をもったうらやましいヤツ(含むやっかみ)”といったニュアンスを薫燻するが、本来は天が才能(そして其れゆえの孤独を)を与えたこと、あるいは人をまっすぐに示す言葉だ。
読んで思う、池田さんもまさしくそんな一個の魂であったのだと。
表紙と作者紹介ページに何枚か付された池田さんのベストショット、赤い表紙に美しくこちらに問いかける池田さんの写真を配し、透かせた紙で其れを示す。現世から離れられた池田さんがこの世を睥睨しているかのようだ。意匠も素晴らしい新しい衣を纏った、池田さんの核たる考えがじっくりと立ち上る一冊である。
口伝(オラクル)と池田さんはおっしゃる。まさに巫女たる口調で。稀有の方であったことを改めて思う。
- 作者: 池田晶子
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2010/11/13
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(長いのでアマゾン大丈夫かな)