佐世保で事件があった。
世間では(世間とは何か?)、酒鬼薔薇事件を連想させる、とのコメントもあるようだ。
誰にとっても悪くないが、そもそもあなたの魂に悪い。
それが、池田晶子さんの、答えだったように思う。いや、これは売春をする当時の女子高校生へのコメントだったか。
酒鬼薔薇事件では、”あなたの魂に悪い”という、そのことが相手に伝わるかどうか、の感触をお持ちだった、というのが僕の理解である。
たぶん、伝わらない。
そういう存在を古来人は”鬼”と呼んだ、と。
そうした形で酒鬼薔薇事件へは、安易に分析して納得しようとすることへの危惧を述べられていたように思う。
池田さんのこうしたコメントを読んで、そしてかの事件は僕の実家のすぐそばであったことでもあったので、どこか僕自身の魂も”腑に落ちた”部分があった。
”腑に落ちる”、そもそも全身で納得することだ。魂で納得する。魂のことは、魂がわかる。逆にいうなら、魂しかわからない。
人は、事件を不安に思い、それを分析することで安心を得ようとする。いわば”自分の物語への取り込み”だ。
それで自分はいい。しかし、自分が、いい、だけだ。それだけで、いいのかもしれないが。。
ここでは、そも”自分”とはなにか、ということに、つながって来て、しまう。
結局は問題はそのあたりに、行き着くわけだ、いつも。
諦念的納得。ここがおわりで、ここが始まり。始まり的終わり、あるいはその逆。
この件で週刊誌等を立ち読み(すみません)すると、父親を叩く声が、(声というのか?マスコミの言い方、というべきか)多いようだ。
世間的にいう”名士”で”やり手”。その裏でそのための”世間体”がその生徒を追い込んだ、という。
そういう、面も、あるかもしれない。だが、どうもそこには、”なにか起こしたら、その家族を叩いて話を面白くして雑誌を売る”という意識が見えすぎて、そもそも雑誌を作るマスコミはそのことが基本中の基であるので、しかたがないのかもしれないが、しかし、
そんな週刊誌に池田さんが連載をお持ちであればいかにおっしゃったであろうか、と、
そう、思うのである。
そして
また思う。池田さんは、もうコメントを雑誌に出されることはない。その遺されたものを読んで、
自ら、考えるしかない。
最後に池田さんが遺されたもの。それは
思うように、自ら、考えなさい。これからは。
ということだったように、僕は思っている。意識しなければならない。”ならない”と義務的表現にはなるが、義務ではない。そこには愉悦がある。自ら、考えること。これにまさる愉しさは、ない。
そのことも実はその教えの裏に、ある。
人生の師、といえば小林秀雄だが、池田さんもまた、その位置に非常に近いところにいらしたようだ。
人生の基本点。特異点、かもしれないが。
座標軸の0のところ。そこを与えていただくと、物事を考えるとき、見るときに揺らがない。
池田さんは、いつも、そこにいる。”人生の0”とでもいったところか。
佐世保事件を考えて、池田さんに行き着く。出来事を引き付けて、”自分の物語”ではない、”0からの視点”で見ること。これが必要なのだ。
実践は、むつかしい。だが、志向することは、できるだろう。
それが、0にいる、ということであるのかも、しれない。