夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

河合隼雄 より道わき道散歩道を読む。そして村上春樹本における「性」の位置付けを考える。

最近河合隼雄さんの本をぱらぱらと読んでいる。

もともと理系で高校の理科教師をされながら、臨床心理学を大学院で学び、その後ユング派分析者として臨床心理士資格の設立に尽力された、という経歴も最近知った。

もともとは村上春樹さんとの会談本を読んでみて、非常にスイングした会話を楽しんだことから、単独本を借りてみたのだ。

私はヘッセでグノーシス主義を知り、同時期にユングの赤の書などにも興味を持ち、その流れでユング自伝等を見ながら最近はドイツロマン派にたどり着き、シュタイナーなどを読んでいるところだ。並行して鈴木大拙、神秘学などにも触れている。

そういう意味で、ユング派分析者であり、スイスエラノス会議にも出席されたという河合隼雄さんには前々から興味があったのだが、読みだすには気合が要りそうだ、との予感があり、確かに全集などに取り掛かるのは大変だろう(そうはいっても全集を1冊古本で手に入れたが)。

タイトルに書いた本は、エッセイアンソロジーというべき本で、1990年後半から2002年ころまでの様々な媒体に書かれたエッセイが集められたものだ。

1995年といえば、神戸須磨の酒鬼薔薇事件があったころだ。オウムや神戸の震災もあり、特に須磨の事件は実家のすぐそばで発生しており特に印象に残っている。

臨床心理家として現場にこだわられた姿をこの本からも感じるところだ。1927年生まれであるので、2002年には75歳、まだまだ意気軒高な文章に圧倒される。

何でもかんでも「わかった」と思い、それによって他を操作するような思考に陥っている現代人は、「わかること」の傲慢さに気づいていない。
(同書 16%→電子書籍なので、記載箇所の全体での%表記としています)
性とは、精神と身体をつなぐものであり、生と死をつなぐものである。
性を男と女を結合する性行為としてのみ考えるのではなく、魂のレベルでとらえると、もっと広がりと深さをもてるようになるのではないでしょうか。
(同書 26%)

この箇所を読んで、村上春樹本のなかで扱われている「性」との共振性を感じた。

最近の読破本は「海辺のカフカ」である。2002年の出版なので、20年前の本であるが、初見である。ほぼ河合氏のエッセイと同時期の本であるが、カフカで扱われている性行為はまさに「儀式」というべきものであると感じる。

他にも、象徴、本当に生きるための通過儀礼、というような。

 

正直に言おう。私は性に関する表現に、いまだ戸惑っている。

いや、見るか見ないか、というと、見る。見るのだがあくまで個人的なものである。そのことを一般論として人と語り合いたいとは思わないのだ。

村上本のなかで、ある意味性はあからさまに思える。もっというと重要、最重要な要素である、とも思える。

そのことで戸惑いはある。いけないものを見てしまったような。

だが、いわゆる「好色」とは違った、もっとFATEな感じを受けてもいる。

 

村上ファンの母親が、12歳の娘に村上さんの対談本を勧め、小説は「まだ早い」という、というその12歳の娘さんからの村上さんへの相談を読んだりした。

どう、考えるべきか。

そんな問いを周辺で得ることも、村上春樹を読む楽しみの、一つであるのだろう。

(また読むべき本が、増えましたね←嬉しい悲鳴)