夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

暑さとポーズと河合隼雄と井筒俊彦。

戦前に兵庫県で生まれた河合隼雄氏は敗戦のショックもあって、「日本のものはほとんどわからないか嫌いだった」とおっしゃる。

若いころはともかく何らかの哲学書を読んで、もっともらしいことを言うのがハヤリで、かつ文学についても同じようなことがあった、ともおっしゃる。

哲学書は2-3度読みかけたが、難しくてわからない。文学も文学的に価値が高いと言われているものが自分にとって何も面白くない、とおっしゃる。

同感である。私の場合は別に哲学書や純文学を読んでかっこつけることが全く流行ってはいなかったのだが、個人の嗜好というか理想というか意地というかよくわからないのだが、「高校生くらいになったらそれぐらいできないかん」という感覚があって、哲学書や純文学を読もうとしてみたのだが、歯がたたないし、面白くない。相変わらずすきなのは「西洋お子様ファンタジー」であった。

お子様ファンタジーではあるのだが、どうやら魔法戦はそれほど好きではない(それよりはプロレスがいい)。どちらかというと、人外、幻獣といったものに妙に惹かれる、という傾向を感じていた。

たまにこちらで掲げさせていただいている版画なども、幻獣やアリスをテーマとしており、現実をつかもうとする趣向は皆無である。それでいい、と思っている。

泉鏡花澁澤龍彦あたりの日本作家は好きである。鏡花はともかく、澁澤の扱うものはやはり洋風がおおいわけであるが。

そんな感じなので、方向は違うが河合先生の感覚にはとても親近感を感じるところである。日本初のユング派分析家である氏であるが、はじめてユングに接したときにはうさんくささを感じたという。このあたりも同感だ。

だが、ユングをすこし読んでいると、妙に惹かれるところがある。これは多分「魂」「潜在的無意識」あたりのことが、うさんくさいどころかよく感じ考えねばならない、と感じられることがらとして立ち上ってきたからであろうか。池田晶子さんの著作群に接したことも大きかった気がする

つまりは哲学も文学も(村上春樹作品などは、魂の文学としてなんとも素晴らしく感じられた)、滋味をある程度感じて味わえるようになるには時間がかかる、ということであろう。井筒俊彦のいう「西洋と東洋」という見方もしかり。東洋だけがよい、西洋こそ素晴らしい、という感覚ではやはり幼い思想、というしかない。

ここでいう「幼い」は否定形でなく言っている。必要な、ステージ、というような意味になってくるだろう

孫引きになるが、河合隼雄さんが引用している井筒俊彦「意識と本質」(これも井筒さんは引用しているので、「ひ孫引き」になるのかもしれないが)にあげられた老子の言葉を引く。

常に無欲、以て其の妙を観
常に有欲、以て其の徼(きょう)を観る
これは井筒先生の解説によると、常無欲とは「深層意識の本質的なあり方」であり、「名を通して対象として措定された何ものにも執着しない」ことである。ここで「妙を観」るとは「絶対無分節的『存在』(『道』)の幽玄な真相が絶対無分節のままに観られる」ことを意味する。これに対して、「『徼』とは明確な輪郭線が区切られた、はっきり目に見える形に分節された『存在』のあり方を意味する」。これを観るのは「常有欲」の意識、つまり表層意識なのである。そして、「この二つの『存在』の次元が、ここでは鋭く対立しつつ、しかも一つの『存在』地平のうちに均衡を保って融和している」のである。
P.208 井筒俊彦ざんまい 若松英輔編 慶応義塾大学出版会 2019年
初出 『井筒俊彦著作集』第4巻付録、中央公論社、1992年4月

これを河合氏は到達は困難ながら、心理療法家に与えられたひとつの理想的態度」として捉えられ、この項を含む「意識と本質」を心理療法家にとっての必読文献にあげられているという。

個人的にいま自身のキャリアを今後どう描くか、という時点に来ている。池田晶子さんはご自身の著作でソクラテスに、「僕は生きるために食べている」と語らせている。

私も「食べるために生きてき」たが、それでいいのか、という想いがある。「生きるために食べる」、つまりは生きるに値することをする、ということを考える時期に、あるいは来ているのかもしれない。

(なやみますね。。あ、タイトルの「暑さ」のことはかけませんでしたね。。今は朝7:44,室温既に31度で暑いです。。)