夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

読書とは徹頭徹尾個人だけのものであり、作者との対話も勿論基本的には個人的なものである、という考えてみると当たり前のことについて。

内田先生のレヴィナスを読んでいる。

私は哲学を学んだことはない。池田晶子さんの本を読みまくっているころ、哲学とは哲学史のことではなく、考えることである、ということを知り、膝を叩いてから、特に哲学を「学ぶ」ことにアレルギーを感じるようになった。

だが、先哲の考えを足掛かりに、ステップボードに、自らの考えを構築する、ということはいいだろう。マンガも絵画も、模写から始まる、という面もある。

つまりは先哲の言っていることをただ単に「解釈して」それをわかりやすく「解説する」ような「哲学学者」が池田さんの目についた、ということもあるだろう。

そんなことを考えたのは、前述のレヴィナス本で、読みとは徹頭徹尾個人的なもので、真剣に肉薄し、切羽詰まって読み込むことが読書であり、読むとはそれでしかない、というような文章を読んだからだ(独自意見です)。

安心して、読めばいい。ただし真剣に。奇跡的で貴重で、限られた永遠であるこの「私の時間」を使うのであれば、真剣になるのは必須であるのだが、怠惰な私の心はつい、

また時間がある。

また機会がある。

今は適当に読んでおけ。

 

などど思ってしまうのだ。

この時間は2度とないのだ。

 

なのに。。。私のあほ。

 

というようなことを、考えさせていただきました。

(私にとって私淑する「師匠」はやはり池田晶子さんですね。。)