夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

日本と西洋の文化と歴史と人種的傾向(歴史から影響を受けた)による違いについて。

内田樹先生の村上春樹論を読んでいて、例えば日本では怨霊や祟りを感じる(感じたように思う)体験がごく自然なものとみなされていた、河合隼雄先生と会談していて村上氏の出した質問に、河合先生がごく自然にそう答えた、という部分に印象を受けた。

村上春樹氏と河合隼雄氏の対談集は私も最近読んで、その流れで現在河合先生(氏となったり先生となったり統一感がなくてすみません)の本を読むと、例えば河合先生はユングが大きく関係したかのエラノス会議に出られた経験があるし(ご子息と行かれてかの地で夜中にワインを痛飲して二人で歩いて帰る、というシーンは読んでいて目に浮かぶようであった)、そこでは勿論鈴木大拙と彼の禅の思想がその出席者を通じて多分世界に広がる契機になったのであろうし、その席に井筒俊彦氏も参加された、ということを改めて読む中で、いままで碩学すぎる気がしてなんとなく敬遠していたその著作をこわごわと読み出したりしているのは、最近の嬉しい我が読書事情である。

鈴木大拙とその妻、そして禅が持つ思想が西洋の神秘学方面に広く受け入れられたことで、神秘学、人智学、神智学というところへ沈潜ではなく浅く潜りだした感じなのだが、その中で印度の思想、そこから仏教が生まれた元ともいえる印度哲学の存在を知った。

神秘学、というものもその当時はある意味眉唾なものとされていた部分があったようだが、西洋思想やキリスト教と違った思想体系として印度思想を取り込んだことは(その取り込み方にはいろいろあったと思うが)それは両者の共通点と違いを明確にするという点でわたしにとってはわかりやすく、魅力的な思考法である、と思っている。

鈴木大拙ユング、禅、大乗仏教、印度哲学、西田哲学といったあたりをふらふらと逍遥しているなかで、ドイツ思想、ロマン派、といったあたりにたどりついた。ゲーテといえばかのファウストドラクロアの描くメフィストフェレスの絵が印象的で、こちらも果てしない知の泰斗、という感じを持っている。その流れで高橋巌先生とシュタイナーに出会ったのだ。

シュタイナーと言えば教育がまず思い出されるが、その教育の裏にはシュタイナー独自の思想がある、ということは感じていた。だがそれまでにその思想を知る機会はほとんどなかった。

そこで、高橋先生の「シュタイナー哲学入門」を読んでみた。

この本で、シュタイナー思想に触れ、神秘学との関係と別離、神智学の立ちあげ、といったことを知ると共に、高橋先生ご自身にも興味が湧く中で、なんと私が名古屋で通っている銅版画教室と同じ系列のカルチャーセンターでWEB講義をご担当されていることを知った。

そこでシュターナーのミクロコスモスとマクロコスモス、という講義録をベ-スをした講義を拝聴している。先週の講義で先生がおっしゃったのが、冒頭で述べた「日本人が持っている傾向と原風景(例えば四季に感ずる心)」がすこしく「西洋の自我確立、つまりは個人をベースとする民族としての傾向と精神風景」と違っている、という部分である。そこで先生は三島由紀夫が晩年たどりつたであろう境地を例にだされて、例えば夏祭りで三島が歓喜して神輿を担ぐ姿を私に想起するように導かれる(ちなみに高橋先生は確か三島と同年のお生まれ、次いでのようだが河合隼雄先生とも同年のお生まれのようだ)。

日本に生まれ、日本人でいること、に私はあまり関心を持ってきたことがなかったように思う。まさに「たまたまそうだったのだ」と思ってきたように思う。

だがかのヒトラーゲルマン民族のみが素晴らしい、と称えたような民族主義に恐怖を抱きつつも、それとは別の単なる事実として少なくとも西洋社会とは別の変化進化を経てきたこの日本人という民族の中に私がいることを想ったのだ。

島国、鎖国、独自の言語。入ってくるのは中国や朝鮮を経由して限られた思想がほとんどであり、例えば印度発祥の仏教はそこに中国色が加わってやってくる。それを受け取り、自身の風土の中で再び「自分なりに受け取り育てる」。その結果の一つが禅でもあったのだろう。

そういう世界に生まれ、日本語で受け取る情報を自らのなかで咀嚼してゆく。高橋先生もシュタイナーをそのご自身の例えば三島由紀夫という存在へのご理解を持って解釈されてゆく。

そして私はそうしたシュタイナーを講義で受け取ってゆく。

ユングのいう潜在的無意識とは言い方によっては「全」であり「一」であり、「神」といってもいいように感じている。そこに我々が連なっている、と感じるということはどういうことなのか。

シュタイナーはこの肉体にある「これ」を「エーテル体」、「アストラル体」という2つに分けて論じる。エーテル体がより個体に親和する部分だとすると、アストラル体、というものはより「全体」に近い、あるいは全体に接し続けている部分であると感じる。

このあたりは「神の炎」の一部がすべての人間に含まれている、とするグノーシス派の思想ともすこし通じる気がするのである。

高橋先生の講義で、講義に接しての感想を、という宿題を頂き書き始めたのだが、ごくごく個人的な最近の読書遍歴のだだもれの備忘のようになってしまった。

(本欄は「日記」、つまり個人的なものである、という一応の前提になっているので、ご海容を乞うところでございます。。。)