昨日は痛飲。
アマゾンで購入した肝臓薬が効いたのかどうか、寝ているときは熱くてうなされている(眠りが浅い)感じであったが、今はなんとか平常の8割くらいのコンディションである。
体重は64.9kg、体脂肪率は10.7%。
勝間和代さんのメルマガを拝読しているが、そこで知っためでたいこさんの算命学にて先般占って頂いた。
算命学とは、各人のもつ「命(素質・性格)」を知る、ということだという。
その命に従い、無為自然に自らの命を全うする。「老荘思想」に立脚しルーツは「干支」を使い出した殷の時代(前15世紀頃)に遡る、とのこと。
つらつら考えるに、今私がこうして私の生の順番を生きているのは、誰かがたくらんだものではない。偶然という名の必然、あるいは必然という名の偶然によって、今、ここにいるわけだ。
例えば先祖の独りがある場所に居なければ。戦争戦乱で命を落としていたならば。今ここにこの私はいないわけである。
過去の時代、「父母、先祖を敬え」という命題をつきつけられ、納得感なく強制感だけあることへの脊髄反射的反発心から、「なにゆうとんじゃ」という感じでやってきた。
だがこうして曲りなりにいろいろ過ごして来てみれば、感謝というか、私がここにいることは先祖のおかげ、先祖の意思ではないにしろ、その日々の生活行動の結果(単なる結果かもしれないが)である、ということに思い至った。
そういう意味では、私が生きていることを感謝する、ということは、とりもなおさず先祖、父母ありがとう、ということになる。
禅に「父母未生以前の自分」という考え方があったと思う(字はうろ覚え)。直接生まれた父母以前の自分、という命題こそ、空中ではしごをはずされたような問いの設定であるが、これはいわゆるユダヤ教の「原罪」「自身が生まれる前に犯した罪」(このあたりも付け焼刃的理解ですが)と、どこか通じるところがある。
自分がなんとか生きてゆかねば、ということは当たり前だ。そこがなんとかかんとか少し道筋が立つ(もちろん現世は流転するので確実ということはないのだが)と、では「どのように生きるか」という問いが、やっとこさ、ぼんやりと立ち上ってくる。
「井筒俊彦ざんまい」P.40 より、井筒の弟子である牧野信也氏の井筒からの学びの内容を記した箇所から引く。
学問に対する態度や生き方について、先生から示された多くのことのうち、今日に至るまで私の心の底にはっきりと刻み込まれている言葉がある。それは、学問においても、人生でも、何が自分にとって一番大事であるかを深く考え見極めた上で、それ以外のものは投げうって、目的に向いひたすら突き進むこと。そして全力を尽くして成し遂げた以上、決して後を振返らず、次の新しい第一歩を踏み出すこと。また、学問のための学問などというものではなく、その対象と主体的に取組み、それによって自分を厳しく見つめ、追及すべきだ、ということである。実際、先生にとって、学問とは、単に対象を理論的に研究することではなく、それを通して同時に自分自身をこの上なく厳しく凝視し、且徹底的に追及する「道」にほかならないのである。
ひりひりとした牧野氏の、そして井筒氏の決心と生き方が伝わってくる。うらやましくもある。師弟関係、ここに一つの極みがある、といえるかもしれない。
めでたいこさんに占って頂いた内容を読んでみると、原理はわからぬがこれは真実につながっている、と感じられた。日々を大切に行きたい、と感じさせていただけるものであった。ありがたいことである。
その結果の一つに、本日9月27日は、先祖からのアドバイスをしっかり受け取るべし、というものがあった。どういう形かはわからないのだが、心して受け取っていきたいとおもっている。
(この世は、とてつもなく単純でありながら、複雑なものですね。。)
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