夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

片山廣子と鈴木大拙夫人のベアトリスと、菜食や神智学ロッジなんかについてつらつら想う。

今日の体重も63.2kg。昨日と確か同じであるが、体脂肪は12.1%。2%ほど上がったことになる。この体重であればやはり10%で行きたいところだ。

片山廣子という人になぜ惹かれるのかということだが、まず私はこの人を翻訳で知ったのだ。とにかくその翻訳が素晴らしい。月並みな表現ではあるが、それは勿論原作の力に加え、翻訳者がその世界に感じる憧憬がにじみでている訳文のせいだったかもしれない。翻訳時に廣子は知っていたと思うが、作者のフィオナ・マクラウドウィリアム・シャープが虚構の女性作家としてこの作品を発表している。そうしたところも亦、なんとも言えない魅力を発しているように思うのだ。

私は幼少期よりファンタジーが好きである。なぜだかはよくわからないのだが、敢えて言葉にするのであれば、この世界のドロドロがない清浄な世界、という感覚のせいかもしれない。なので、ハイファンタジーや剣と魔法と呼ばれた物語でも、この世のすったもんだがあまりないものがいいのだ。

恋愛ものは実はあまり得意ではない。上手くいく男性に自身を投影することは困難で、だいたいが残念な男性に自然に投影してしまう。女性の気持ちにもやはりうまく投影できない。読んでみると結構楽しいこともあるが、基本恋愛ものはあまり積極的にアクセスしない。

動物ものは好きである。人間ではない、という時点で無理に自身を投影しなくてよい、という点がいいのかもしれない。指輪物語では主人公はホビット族。まあ人間とかわらないのだが、違う種族というのはすこし気楽かもしれない。

結局この世でうまくやれない、あるいはうまくやろうとすると神経をすり減らす、という実感があるのだろう。この場でも会社生活は酒で乗り切る、というわけのわからないことを言いいいしているわけだが、そもそも好きで飲んではいない。まあ、飲んでいるうちに気分がよくなるのだが。

素面ではうまくいかないのだろう。韓国や日本では年齢が順列を生むというが、これをうまく利用すればいい時もある(悪い時もあるが)。

片山廣子の生きた時代、女性の地位はなんとも低い。学校を卒業すると女性の仕事は教師くらいしかない、ということだったが、やはり人に教える、ということはその人の資質が大きくかかわる。私もあまり教えたいという気はなかった。祖父2人とも教師であったのだが。

そんな中で自身の気持ちを表現するには、短歌がそのころブームであった。廣子は与謝野晶子と同年生まれであり佐佐木信綱の竹柏会に入門している。同門の同じ学校の後輩に、妾腹ながら大正天皇のいとこにあたる血筋である柳原白蓮として知られる柳原燁子(あきこ)などもいた。白蓮の母は妾という身分であったが、没落士族の娘ということである。

廣子の「燈火節」のなかで、鈴木大拙夫人のベアトリスとの思いでを書いた一文がある。廣子とベアトリスは同年の1878年生まれであり、廣子の父がニューヨーク総領事であった関係で鈴木大拙との縁があったという。ベアトリスと大拙は1911年に結婚しているので、その後すぐ知り合ったとすると、両人とも33歳ころであろうか。廣子の長男は達吉は1900年生まれなので、11歳ころであろう。

面白いのは、大拙によるとベアトリスは絶対菜食主義だったというが、片山の文章ではベアトリスはビフテキパイが大好きで、「奥さんたちをランチに呼ぶときはいつもビフテキパイを主食に」とある。日本にきてすぐのころはまだ菜食主義一辺倒ではなかったのであろう。後年ベアトリスは京都の自宅に神智学協会のロッジを設けた(1924年)というが、京都という土地柄か、またベアトリス自身も1921年(43歳ころ?)より大谷大学で教えたりもしているからか、夫との関係もありアカデミックな集いとなったという。

初期のころは同世代の婦人たちとの交流が主だったのであろう。だが廣子自身も日本で初めてのプロテスタント系女学校である1884年設立の東洋英和女学院に寄宿し、西洋人教師と密接に接してきたということもあり、勿論英語には堪能であったろうし、そこからベアトリスによりフィオナ・マクラウドアイルランドファンタジーを翻訳する導きを得たのであろうと思う。

(なんとなくそのころの心の交流に思いを馳せております(笑))