夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

西田哲学とは世界の「自覚」による認識のことらしい。哲学と宗教の微妙で難しい関係についてつらつら考えたことなど。

西田幾多郎のことが気になったのは、多分禅経由鈴木大拙のことに興味があったことがきっかけであったと思う。

まあ、別に禅にも鈴木大拙にも詳しいわけではないのであるが、マインドフルネス等がブームになる前に、個人的な禅ブームが来たことがあり、その時に禅のムックやら、座布やらを購入し、見様見真似で自己流で座ってみたり、鎌倉の円覚寺の座禅会に一日行ってみたりしたことがあるのだ。

私の家は仏教徒ではなく、父方が神道(水戸系)、母方は祖父が宗教嫌いで、母はクリスチャンという感じで全く仏教に縁がなく育った。

ということで、「うちの家は仏教のなになに宗」という縛りもなく、気楽に禅仏教にアクセスできたことも大きかったような気がする。

とにかくなんとなく自身を落ち着かせたい、ということがそもそもの契機だったろう。仕事でのストレスが大きかったのだ。

というフリーな感じだと、北米スタート(?)で禅を”ZEN”として海外に広めた鈴木大拙にそのうち興味をもち、その婦人(ベア子ことベアトリス夫人)の関係からも神秘学に興味もわき、片山廣子が同い年のベアトリスと縁があったことも幻想文学好きの流れで興味深く思っていたりする。

で、鈴木大拙から来る哲学が西田幾多郎である。禅は公式にはどうなっているかは不明ながらどちらかというと仏を拝むよりは座禅により自らの中の自分に出会い、その姿をつかもうとすることで、世界と出会い、そこに「悟り」というキイワードがあり、その境地を究極求め続けるような生き様である、というのが私の中での認識だ。

今回は図書館で借りた、上田閑照編、1990年6月22日岩波書店発行の「西田哲学への問い」の中から、末木剛博(すえきたけひろ)による稿、「西田理解の方法と矛盾概念の解釈ー矛盾的自己同一の無矛盾的理解ー」を読んだ。

この本をなぜ借りたのかの契機はもう忘れてしまったが、上田閑照氏の著作は何冊か読んでおり、マイスター・エックハルトあたりへの考察などを通して、非常に素晴らしい著述者であると認識しているので、ああ、上田さんが編ということはなかなかいい本ではないんかいな、という気楽な気もちがあるいはあったのだろうか。

西田哲学はもちろん門外漢であるので、申し訳がないが末木剛博先生の名も初めて知った。1921-2007、86歳で亡くなられている。東大教授で晩年に大著「西田幾多郎」を著わした、というあたりの経歴をWIKIPEDIAで調べた。単著を著わした方だとだいたいこうして調べられる時代になった。

この編書に含まれている文それぞれがもともとどれくらいの時期に発表されたのかは不明だが、1990年発行であれば末木先生は69歳位、教授職も最終期で大著「西田幾多郎」を脱稿される前後ではないかとも思うので、或はその西田理解のピークの時期に表された稿かとも思った。

前置きが長くなったが、この稿を読んで思ったこと、それは

哲学と宗教との近くて遠い関係

についてである。

鈴木大拙はもちろん大乗仏教や禅といったものを通していわゆる「宗教」の人だとは思うが、どちらかというとその著書を通しての「学者」でもある、という印象だ。

一方西田幾多郎は、盟友の大拙との頻繁な書簡交換などを通して、さまざまな気づきなどを得たともいうが、どこまで行っても「哲学」の人、という感じで、自らが宗教者である、とみられることをあるいは警戒する心があったのではないかと個人的には感じている。

敬愛する池田晶子さんは、自らが決して教祖、つまりは宗教者である、と思われることを潔しとはせず、「信じるより考えること」とおっしゃり続けた人であった。「信じる」という心の動きに、なんらかの無理や死後の不安を押さえつけようとする心の働きを感じられたからではないか、と考えている。

そう、「信じる」ということば、あるいは心の動きが問題なのだ。

勿論さまざまな「信じる」があるが、私見では「信じる」という言葉の範囲が広すぎることが一つの問題であろう。

とことん自らを追求し、その結果「信じる」に至るような信じる、があるだろう。

一方で、「現世利益」や「死への恐怖を押さえる」ために、あるいは家や家族からの強制あるいは自然な経緯で、「信じなければいけないから信じる」というものがあるだろう。どちらかというと世の「宗教」の大多数はこちらではないか、と思っている。

怪力乱神を信じる、という言葉がある。あるいは心を「信じる」で「整理」し、「参拝」により清らかな境地を得ることで、結果として「日々の生活」が上手くいくときもあろう。

だが、「神に祈り、個人の利己的願望の実現を願う」というところ、もちろん大切な家族の幸せを願う姿にうたれるところもあるのだが、対価を求めているような点は少し気になるのである。

西田幾多郎の哲学を考えるときのキイワードは「矛盾」あるいは「矛盾的」というものであろう。この語は多分やっかいだ。語感として、「分らないこと、うまく説明できないことをそのまま受け入れましょう」というものがあるからだ。

だが、西田のいうのはあくまで「矛盾的」つまりは「普通は矛盾として感じるが実は矛盾ではない、あくまで“的”、そのように見えるが実体はそうではないことだ」ということのように理解した。

西田自身は自分はあくまで論理的である、という。わざわざそういうのは、あるいは「宗教的=論理的ではない」という他者の批判などがあったのだろうか。

プラトンの文章の「神秘的」「宗教的」な部分は、注意深く省かれて我が国では理解されている気がする。シュタイナーの人智学は、日本人の目には「宗教的」と感じられる部分もあろうが、あくまで「シュタイナー教育」ということが強調され、その「宗教っぽさ」は注意深く脱臭されている。本来「隠されたもの」という意味の「オカルト」は、なんとなくだが「トンデモ世界での出来事」という発想もある気がする。

オウムや統一教会等へのアレルギー、現世利益中心の宗教観などから、「宗教へのアレルギー」は普通の日本人には普通のことだろう。

そこを考えると、哲学には時に「宗教的に見えること」つまり「生」とは「死」とは、というようなことを考えるがゆえに、注意深く「宗教」と距離を取るべきだし、そうしないと「学問である」と言われなくなるリスクがあるのではないか。

ユングを日本に紹介した河合隼雄にしても、いきなり日本人に「集合的無意識」と言っても警戒されるので、まずは治療面を全面に出し、箱庭療法などを広めたあとでその全貌を開陳した、という。

だが、「生」や「死」について、生きてる間には決してわからないこととして下に線を引くことが、その行為が「哲学」であるのなら、実は「宗教」も同じネタを扱っている。

どうしても両者は付かず離れず、ということで、存在していくしかないのであろう。

西田幾多郎は言っている。

私の絶対矛盾の自己同一というのは、宗教家の所謂神に相当するといってよい。
西田幾多郎全集 第9巻: 日本文化の問題
 120p
神とは、絶対矛盾的自己同一であるのである。
西田幾多郎全集第9巻: 日本文化の問題
  317P
(注)引用論文ではローマ数字のⅨ(9)と書かれていたので、全19巻の西田幾多郎全集(岩波)の9巻目のことと推察しました。


(タイトル回収が不十分ですが、とりあえずはこの辺で。。。)

f:id:mamezouya:20230928063619j:image