夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

生と死。

生死は生死する外ない、生死が即ち生であるからだ。


西田幾多郎が、72歳にして盟友鈴木大拙の本、「文化と宗教」に「序」として寄せた文から拾った。

 

これは同書から西田が気になった言として引用したものだ。


同書は1942年の刊行であるから、戦時中の発行であろうか。西田は3年後、終戦の直前に75歳にして死去する。西田と同郷、同級生であった鈴木大拙は、友の死後21年を生き、1966年に亡くなった。


死というものは単独ではない。生と同じく、生と表裏一体で或るものが死である、というようなことを、池田晶子さんもおっしゃっていたように思う。


人は”死”というものを、今生きている私とは別にある、急に訪れるものだと、意識しているものだ。私もそうだ。だが、死はいまここに、この生としてある。分かれて認識するようなものではない。そう大拙は喝破し、西田は頷き、池田さんもまた巫女の神託がごとく真実として伝えてくださる。


ことはかように、見えにくい。なぜ、真実は真実として見えにくいのであろうか。人間は、知ってか知らずか、多分魂の奥ではしっかり認識しつつ、エゴの生存戦略に乗っている。エゴはエゴであるが、人が生きるときにはそれが燃料として、あるいは一種の麻薬、理性を麻痺させつつ結果的に生きることに熱心になる手段、として作用することを、魂が知っているからなのかもしれない。


これは一種の共犯関係かもしれない。なぜに共犯が世間と人の意識の中で、許されるのか。人は、生きたいからか。”死にたくない"からか。


結局死が生とここにあるのであれば、そのことを認識するのはより楽になる、生きることが光を帯びる、考え方ではないのだろうか。


いったりきたり、逡巡なのか、疑念なのか、あるいはエゴのあがきであるのか、
なんだかわからないながら、考えている。


(だから時間、や日々の生活とは、いとしいものですね)

 

西田による、同書の引用部分、および西田の大拙に対する思いなどを以下で転記する。

 

この書で、先ず時が独尊者の痕跡であるというのは面白い。それから、自分が自分でありながら、自分でないという心が、自分が自分がという心の底から出てくると、人間が自然で、自然が人間でるとか、白雲未在という公案があるが、何といっても未在だが、未在がそのままで未在でないとか、よく生死脱得などというが生死は脱得すべきものではない、生死は生死する外ない、生死が即ち生であるからだなどというのは、深い意味のある言と思う。

 

君のいう所、行う所、これを肯うと否とに関せず、いずれも一種の風格を帯びざるものはない。水自竹辺流出冷、風自花裏過来香(*)とでもいうべきか。
(*) 水は竹辺より流れ出でて冷く、風は花裏より過ぎ来って香し
                           (禅林句集)

 

鈴木大拙とは誰か (岩波現代文庫―学術)