読書をしていて楽しいことは、”芋づられる”ことである。
わたくし結構感激するたちのようで、ある本を読んでいて、
”ああ、ここでこの本を読んでよかった、というか読んでなかったらどうなっていたのか!我が人生!!”
という風にすぐに感極まってしまう(内面的に)。
まあ、個人で勝手に感極まっても、別に皆さんに迷惑がかかるわけでもなかろうから、私は私に、”思うがままに感極まれ!”
と思って自由にさせている。
で、だいたいはいままでに知らなかった世界が垣間見えるので、関連した本や情報を探し始める。この行為が”芋づられている”状態である。
なので、感極まると、その作者筆者の過去作品文章などをどんどんつぶしてゆく。
昔は早くたくさん読むのが良い、などと思いこんでいたが、最近はスピードがあると咀嚼味読する時間が無いように思え、読む時間(午前中がベター)、環境(なぜか家よりも電車車中などが集中できる=時間制限があることと、”群衆の中の孤独”が深いからだろうか)をあえて制限管理し、メモあるいは写経(と称する書き写し)をしながら読んでいる→書き写しをするのは、これは前にもこのブログで言ったような気がするが、あきらかに読むだけよりも頭に深く内容が入ってくるように感じられるからである。個人的な感想です(笑)。
したがって、読む量は減っている。そういえば、緑内障といわれ、目薬を使用していると、すこしだけ睫毛がのびる副作用もでてきた(=別にいやではない、というか嬉しい)。
多分昨年の今頃だったように思うが、ケン・ウィルバーの著作を読んで芋づられ、そこからエックハルト・トール、デビッド・R・ホーキンズ、ヘルメス・J・シャンブ、マハラジ、クリスナムルティ、などといった、インド系思想の森に愉しく分け入った。
関連して、神智学へ飛び、昔同じく芋づられた、ユング、ヘルマン・ヘッセ、グノーシス、といったところへ行きながら、マイスター・エックハルトにもたどり着いた。
たまたまアマゾンで、エックハルトを論じた鈴木大拙の”神秘主義”岩波文庫版が発売されたのを見て、軽い気持ちで購入した。
もともと禅には興味があり、座布を購入し、東京在住時には円覚寺の参禅も経験してはいるのだが、そして金沢の鈴木大拙館にも(観光で!)行ってはいるのだが、
禅も大拙も、ちょっと深堀できてなかった、という感じであった。
しかし!大拙の”神秘主義”を読んで一驚!!このブログでもその驚きを最近ちょっとずつ開陳させていただいているわけだが、
大拙が、大乗仏教(そう、小乗仏教が大乗仏教からみたいわゆる”差別呼称”であり、最近は上座部仏教と変更されたということだが、その経緯から”大乗仏教というのは歴史的変遷の違ういわば原始仏教を、呼称で貶めた(結果的にかもしれないが)宗教であり、逆にちょっとどうなのかなあ、、と深い理解は全くないままただ漫然と思っていたその大乗仏教)が、インドの非二元論などと通底し、呼応し合い、エックハルトのキリスト教(異端レッテルありますが)とも通底しているとは!!
そこから大拙”神秘主義”の解説を書かれた安藤礼二氏の”大拙”に至って、これまた一驚。
なんと大拙の奥さん、ベアトリスが、神智学に関係する方だったとは!
となんだかどんどんつながって来ている。
有名な”絶対矛盾的自己同一”、この言葉に関しては池田晶子さんも何度か言及されているが、
このことばが実は大拙との書簡交換を通じて両者で平行し共鳴して練りあがった言葉である、ということに加え、
インドの宗教・哲学の関係から、その意味するところが、自分なりに立ち上ってくるように感じられた。
安藤氏著作に導かれるように、西田幾多郎“善の研究”を読んだ。明治44年、初版の序で西田は言う。
この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。(中略)第二編は余の哲学的思想を述べたもので、この書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積(つもり)であるが、またこれを独立の論理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。
西田幾多郎 善の研究 岩波文庫版(エア草子版を参照) P.3
そうか、第二編が骨子であるのか。では、とおもむろに第二編に向かう。
哲学と宗教と最も能く一致したのは印度の哲学、宗教である。印度の哲学、宗教では知即善で迷即悪である。宇宙の本体はブラハマンBrahmanでブラハマンは吾人の心即アートマンAtmanである。このブラハマン即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。
西田幾多郎 善の研究 第二編 実在 第一章 考究の出立点 P.20
40歳目前にして西田が初めて世に問うた著作の中で、西田がもっとも云いたかったことはこのことだった。
これ、
これは確かに、最近の読書群で、すべての著者が著作が、異口同音に語っていたことに通じる。
そうか、西田も(えらそうですみません)。そして大拙もまた。
これはどうもやはり古今東西、真理は形と語り口を変え(語る人と時代が違うのであたりまえか)つつ、同じことを指示して、
いるようだ。