夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

様々な神秘主義。

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今朝の体重64.7kg、体脂肪10.7%。

体重のわりに体脂肪が多いのだが、月曜にジムに行けたのでやることはやった感がある。ので精神面では安定している。

ここで体重を落とそうとすると、歩くことになるが、先週熱中症になったので、今週はあまり無理をしないようにしている。暑ければ途中でスポーツドリンクなどを飲んでいる。あまり節約していると逆に体が危ないし、最近は水ばかりだったが、体に悪い加糖ブドウ糖液ではあっても、熱中症になるのよりはいい、と割り切ることにした。

さて、今朝は井筒俊彦「意味の深みへ」をすこし読んだ。あまり読み飛ばすと内容が深すぎるので、消化しきれない。なので数行ずつという感じでもいいので、出来るだけ理解しようとしている。

その中で、

神秘主義、とは、本来いわゆる日々の生活のための便宜的手法として生まれた「言葉」を使って、いわゆる意思や精神の奥に潜むそこはかとないなにか、にアプローチしようとする心持ちのことだ、という風に感じた。

いわゆる神秘主義とは、誤解を恐れずに言えば自らの中にある「神性」、もっとストレートに言えば「神」を探そうとするもので、「我」と「神」の位置づけや関係性を探り続け納得したい、という(答えがなくとも)気持ちを持ち続けることだと思う。

自らの中に神の一部がある、とした「グノーシス派」は異端として殲滅され、エックハルトもその最後は異端審議を受ける為の旅の途中で亡くなった、と聞く。井筒はイスラム文化のなかのスーフィでも、自らの中に神を見つけた、とつぶやいたものは、残虐な拷問の後に殺害された、と言っている。

神秘主義を区別するなら、いわゆる一神教キリスト教イスラム教などでの神秘主義と、大乗仏教禅宗、といったいわゆる「神」を明確に定めない宗教、あるいはヒンドゥーなどの多神教、といった各地の宗教によってその立ち位置が変わる、と説く。

私は各宗教に詳しいわけではないのだが、鈴木大拙が欧米で説いたような禅や大乗仏教、というアプローチを考えても、現在の日本においてはいわゆる「神秘主義」的考え方がことさら忌諱される感じがないように思う。

仏教の私の中での個人的なプリミティブな感覚では、人は死ねば「成仏」しうる。勿論「地獄行き」もあるのだが。つまりは「仏」になるのだ。

その時にいう「仏」と、いわゆる「神仏」といった時の仏とは、なんとなく違う感じもする(輪廻で戻ってくるので)が、字は同じであり、感触としては「仏の一員となる」感もある気がする(違ってたらすみません)。

つまり、人は「死ねば仏に成る=成仏する」のだ。

こうした感じがぼんやりと日本の中にあるような気がするが、その感触であれば、「自らは仏の前身で、死んだら仏になるのだ」と思っていてもおかしくはない。そもそも菩薩とは修行途上で仏になる前の存在である、というではないか。

つまり、「自らの中に神の一部がある」と言って殲滅せられたグノーシスや、異端認定寸前で亡くなったエックハルトのような「正統派からの糾弾」が、まあ、有るのかもしれないが少なかろう、と思うのだ。

また、これも浅い認識で恐縮だが、禅であれば、やはり「悟り」がいわば究極目的であり、悟ること=神(仏)、ともいえるのかもしれないが、そこではいわゆる人格神といったニュアンスからは遠いような感じがする。

そして個人的な感触だが、そもそも日本では神仏習合、葬式仏教、神社にも寺院にも分け隔てなく行き、どちらかというと現世利益を祈願する、という八百万系の神への土着的親近感も混交している気がする。

なので、いわゆる「一神教」で感じられるような厳しい戒律感は、あまりない。つまりは「自ら自由に信じることができる(含む信じないこと)」という立場だ。

それにオウムしかり、統一教会しかり、今はそもそも「宗教をやる人は大丈夫か」「お布施や献金、マインドコントロールは大丈夫か」といった感じで、宗教アレルギーがずっと高い状態である、といえるだろう。

いわゆる「宗教」は「哲学」の双子の姉妹、そもそもギリシャ哲学、例えば「新プラトン主義」といえばほぼ宗教ともいえる内容であると、日本人としての私は感じる。

池田晶子さんは、「日本人」というくくりや、「世代」「性別」といったくくりから完全自由になり、ただ「考えよ」と説かれたが、

そうした「完全自由」のなかで、そろりと「考えだす」ことは、結構スリリングであったりするのだ。

(変にしがらみのない「宗教」のことを、「哲学」というのかもしれませんね。。あと読み返してみたら「いわゆる」という言葉の使用が多いこと。。。まあ、癖ですねーーー(笑))