夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

結局、生きる、と存在する、は一緒なのか。

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存在する、には「生命」は必須ではない、とふつうは思ってはいる。

例えば「石に生命はない」。

だが、生命とは果たしてどのような状態のことなのか。

物体に「魂」が入って、「生き」、動いたり成長したりする、ということだろうか。

では「死」とは、物体から魂が抜けることなのか。

では、石には魂は入らないか。

入る、と考えたのが、いわゆる「もののけ」であるかもしれない。

茶碗に魂がたぶん間違って入り込むと、「化ける」。唐傘に間違えて入ると「化ける」。

物質から抜け出た「魂」が、いるべき場所(そういうところがあるとして)にうまく戻れない(=成仏しない)と幽霊などになる。

うまく戻ると、成仏、すなわち「仏と成る」。

仏、をいわゆるユングのいうような集合的意識、のようなものであり、仮に「一部」が「何かの理由で」物体=生物として「生きる」をある期間過ごすとみれば、

それは「仏」とも、「神」ともいえるかもしれない。

これを神、とみれば、我々は神の一部をもって活動する存在。

死すれば「神の全体」に戻ってゆく。

このような考えをしたグノーシス派を、いわゆるローマカトリックは「異端」とし、人間の魂と神はあくまで別々であるとした。「神が人を創った」。

まあ、思考実験だ。どう考えようが自由だし、死ぬまで答えはわからない。死んでわかるかどうかも不明だ。

考え続けてわからないことの下に下線を引くことが「哲学」であるのなら、

死、は哲学のテーマであり、考え続けると「宗教」と限りなく近づく。

だが、最後のどこかで「折り合わない」。

 


そこの差異は、「知ることと信じることの差」である、と池田晶子さんはおっしゃったのだと思っている。


信じる、には無理がある。


わからないけれど、そういうことにしておこう。

あるいは、どうせわからないから、そういうことにすれば心が楽。

そんな打算が含まれがちだからだろうか。

 


そういう打算のことを感じ、そこから自由であろう、とする信心の姿勢もまた、あるだろう。

ただ、そういう信心から、またぞろエックハルトにょうに、結局人は神である、ということに近づいてしまう考えが、消せずに再び起こるであろう。

宗教を宗教として管理することは難しい。

 


そこから離れたところにいる皆さんが比較的多いのが、ここ日本という地域の精神世界であるようにも思う。

自由ではあるが、寄るべきところがない、という脆弱性もまた、持っているのかもしれない。。

(思考実験、思考実験。。。)