夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

本質と有と無と仏教とヴェーダーンタ哲学とローマ正教とグノーシス。井筒俊彦「意識と本質」を読む。

思想、といっても、生き方の根幹をなすもの同士は弱肉強食である。

宗教による戦争などは端的にそのことをあらわす。

 

一方で結局究極的にはみんなが同根というか、せんじ詰めればすべての思想は収斂し、全てが一であるというか、無境界、という感じもある。

井筒俊彦の「意識と本質」を読んでいるが、中身が大変に濃いので、1ページよんでは戻り、時間が経つとそのページを読んだこともわからなくなる。膨大な知識と知恵の集大成という感じである。

気が遠くなるほどの学問の泰斗、という方は本当にいるのだなあ、というのがただ一つの感想といえるのかもしれない。

冒頭部分でいまだうろうろしているのだが、すべては私に与えられたこの頭のレベルでの理解とまではいかない感想であるので、悪しからず。。

ヴェーダーンタ哲学では、ブラフマン(梵)が唯一絶対不可分の存在であるという。一方で大乗仏教では本質は無である、という。

一見すると究極の対立であるのだが、一方であっても無くても結局は同じことを言っている、という気もしてくる。

大乗仏教では、すべてが無であるのであれば、ではこの目の前の実感もないのか、というとそうではなく、本質ではないが「妙」というものはある、というらしい。

この「妙」ということばを見ると、日常生活で本来由来の意味を無くしながらも、仏教用語が日常会話の中に染み込んでいることを感じる例だろう。

「妙ちきりん」「神妙にする」「妙だな」

日常でこうした言葉は今はあまり使わないかもしれないが、全く使わないということはない。その時にはもう「妙」という言葉の意味はほとんどというか全く意識することはない。だが、「本質ではないが存在のようなものを示す言葉」であると知れば、なんとなく面白みを感じる部分はある。

この一緒のようで一緒ではないが、やっぱり一緒ではないとも言い切れない、という世界を見ていて、思いついたのは、

グノーシスキリスト教(ローマ正教)の関係だ。

ご存じの通りグノーシス派のキリスト教は異端とされ、現在は根絶されている。私はこの理由は、ローマ正教側の「ずるい」「そう考えたら我々が存在できないし、折角作った教会組織=日々食べてゆくための仕組み、が瓦解かもしれないではないか」という本音によるもの感じている。

つまりはグノーシスキリスト教は、「全ての個人の魂は神の一部であり、忘れているだけ」と説く。一方でローマ正教は「人間の魂は神により救われるべきもの=神と魂は別」と考えている、との理解だ(個人の理解です)。

神ではない個人の魂を救う、という部分にある種の「ビジネス」が生まれる。そのビジネスで食べていこうとするのが教会、という仕組みである、というのがいささかシニカルかもしれないが私の現在の理解である。

それをもともと魂はほっておいても神の一部だ、なんて言われてしまえば、別にわざわざ救おうとせずとも良いことになってしまう。いろいろあるかも(生活を質素に清廉にとか)しれないが、まあ、別になにをしても「神」なのである。それを「悪い現世を創造した現世神」がいて忘れさせている、というのだから、まあ異端というよりは全く別の宗教ともいえるだろう。だがそこで示される「神」が同じなので、まあ、異端といえなくもない。

仏教では「成仏」つまりは地獄に行かなければ魂は仏になるわけで、そういう意味ではグノーシスとも親和性がある。

ローマ正教は、魂は神とは別、とみる分にはある意味本質は無である、という大乗仏教とも近い面がある。ヴェーダンタ哲学と大乗仏教の関係、グノーシスとローマ正教の関係、ちょっと似ているなあ、と思ったのだ。

(結局すべては一なんですかね。。)