夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

私が。

”私がわたしにつぶやくのではない。私がつぶやきによぎられるのだ。つぶやきは「絶対」の自己確認であり、無私の私がその場所となる。”
池田晶子 事象そのものへ! より

私の中の神を信じる。

私が神なのではない。

私が永遠と連なっているからして、その永遠の中に神が”在る”。

仏にあえば仏を殺せ、と禅はいう。

そとにある”似非仏”は殺せ。

神は一にして全である。

魂は一つにして全である。

宇宙はこの心と魂を含み一つである。

一つであることは素晴らしいことだ。

人が動く。天体が動く。

それは”生物と無生物”の差異は無きに等しい。

どの動きが生物的で、どの動きが無生物的なのか。

それでいうなら、魂は”生物の専売特許”か

いや、そうであるかどうかは永遠にわからない。

いや、わからない、は不正確か。

わかっている、あるいは、”真実である”。

神を神と呼ぶことは誤解を生む。

神は天である、と古人はいった。

天体は神である、と先人は言った。

笑い事ではない、神話でもない。ファンタジーでもない。

それは真実だ。

いや、天体が人格をもつ、というわけではない。

すべてが一である、という意味だ。

一つにして多様。だが多様であることの意味はなにか。




生きていることは素晴らしい奇跡である、と池田さんはおっしゃった。

すこしずつそのことの意味がしみ込んできている気がする。




しかしそのことはなかなかわからない類の事柄でもあるのだ。


これには月日と、あと何かが必要だ。




そう、例えば池田晶子さんの魂のような。




宗教的意味が薫染している言葉ではあるが、敢えて使う。

”導き”である、と。