夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

垂直的孤絶性。

ご自身のありかたの一つの表現として、池田さんがおっしゃったこと。

これは前にも引用したかもしれないが、ユングが元型論で述べている無意識の構造とは、こうである。

集合的無意識とは「こころ」全体の中で、個人的体験に由来するのではなく、したがって個人的に獲得されたものではないという否定法によって個人的無意識から区別されうる部分のことである。個人的無意識が、一度は意識されながら、忘れられたり抑圧されたために意識から消え去った内容から成り立っているのに対して、集合的無意識の内容は一度も意識されたことがなく、それゆえ決して個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝によって存在している。

 C.G.ユング 元型論 林道義訳 P.10

考えてみると、無限は意外に身近にある。例えばこの身体。からだを構成する物質は、形を変え、受け継がれてはいるが、永遠のかなたに繋がるものだ。

宇宙もそう、空もそうだ。

その限界を、”考えることができない”

あるいは”存在しなかったまえ”があるのかないのかが、思考不可能である。

物質もそう。ないところにいきなり出現したのだとして、その”ないところ”はあるのかないのか。

精神は、この私の精神は、どこから来て、どこにゆくのか。

生命とは、なにか。死ぬとは、なにか。


永遠にわからないものばかりのなかで、生きる僕もまた”不可知”。

禅の心はこのあたりにあるのかもしれない。この私のなかに”仏”はある。すべてのものの中にある。

ある人が、偉いとか偉くないわけではない。ないひともない。

みんなある。


だが気付くにはある一定の心の”高まり”のようなものが必要であるようにも思う。

触媒、による高まりでも、もちろんいい。

そう、いつものあれ、ですよ

そうそう、”池田晶子”さん。


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えーと、久しぶりに小説を読んだ。

これ。

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

一時期、小説をかなり読んでいた。子供のころは、本といえば、小説のでことであった。

おとぎ話好き(いまでもだが)であったので、自然にファンタジーやSFを読むようになった。

まあ、時代もそのような感じであったのだろう。これもここで何度か呟いた記憶があるが、小学校の時校庭で友達を座って本を読んでいたとき、そしてその本はたしかフリッツアンドライバー(だったかな)の創元推理文庫の中に含まれるファンタジーっぽい本だったように記憶するが、いきなり先生に本のタイトルを見られて、そして”こんな本を読んでいるのか”と言われたことがあった。

そも、本のタイトルをいきなり見られる、ということは微妙である。そして見た後の感想は”なんだこんなものを読んでいるのか”。

悔しかった。ただ、小学生で文庫本、という図がものめずらしかったのかもしれない。

こうして歳をとってみると、そう思う。

悔しかったが、瞬間思ったこと。それは、”先生をうならせるような本は絶対に読まない、自分は意地でもこの分野の読者を貫くぞ!”ということであった。

本を読む、ということの孤独と自己判断性、自己責任性を、それこそ本を読む、という行為を通して感じていたように思う。小学校4年くらいから、そうした想いと”子供”という役割のぶれを感じていた。そう、そして気持ちと心は、そのころと余り変わっていない。

そのころ、”僕”が生まれたのだろう。

中身は、全然人に誇れるようなものはない、が、すきなことはいまだしています。

小学生の僕に伝えたいこと。そんなことを思い出させてくれるようなよき本であった。おすすめ(いや、有名な本ではあるが)。


ほとほと思う。こどもの時の”電撃的一言”はその後の人生をけっこう左右する。

この”こんな本を読んでいるのか”は、僕の読書のみならず趣味世界を、そして同じく小学生の時、靴箱近くでかがんでいた僕の背後からかけられた”出っ尻”という言葉が、この30年以上にわたるトレーニング好きの性格に繋がったのである。

コンプレックス、というものの持つ、心の力を、思う。