池田晶子さんの本、「考える日々」を読んでいる。
- 作者: 池田晶子
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2014/11/26
- メディア: 単行本
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昨日の項、着床前検査というのでしょうか、生まれる前に事前に遺伝子の確認をすることで、生まれ来る(予定の)子供の障害やら性別やらなにやらがわかる、ということ、それがわかれば障害をもった子供を生んだ親はその費用を自己責任で負担せよ、といわれかねないと指摘する新聞記事のことを書いた。
昨日、くだんの池田本を読み進めていたら、1999年か2000年ころの池田さんが、既に同じことに言及されているのにぶち当たった。
当たり前といえば当たり前かもしれないが、ちょっとしたシンクロニシティの感があった。
これは同じことが実はアメリカでは15年も前にあった、ということだ。既に遺伝子ビジネスが花盛りであるとある。
この記載を見て思ったこと。それはひとつの事象をめぐる日米の差異が際立ってきて、興味深い、ということだ。
かの国では”なにごともプラグマティックで”、障害を持った子を第一子として授かったカップルが、今度はこの技術で障害のない子を新たに授かっていわく、”この技術は神がわれわれに使用するために与えられた技術なのだと確信した”と語った、とか。
このあたり実際の本を参照しながらではなく、大体の流れなのだが。
池田さんはおっしゃる、こうしたカップルの気持ちはまさに実感で、しかしそれは信じたいようにしか神は信じられないことを示している、と。
ここで”神”が出てくることに彼我の生活実感の温度差、のようなものを感じた。15年後の日本ではなにが出てくるのか。”カネ”である。費用、お金、あるいは税金。なんといってもいいかもしれないが、つまりは”税金というあたしのカネ”である。
まさに日本における”神”の役割を、”カネ”が担っていることを象徴しているようだ。
いや、”神”が崇高で”カネ”が下世話だ、といっているのではない。池田さんは等しく”信じたいように信じる神”や”考えたこともないくれてやる税金”のことは真実にはなにも関係がない、とおっしゃっている。
両方とも、いわば”信じたくて信じるもの”だ。
本当のことはどこにあるのか。
それを本当に考えていない。
それをおっしゃっている。
しかしやはりこの”極東の島国”、同じことが15年実施するのにかかるところがまた象徴的だ。
これはたぶん、”神”をベースにした現実性の温度差、であるように思う。かの国ではたぶん、議論が”待たれる”までもなく活発であったのではないか。
”神”の所為にできる分、議論がたぶん進めやすい。日本ではこうはいかない。”待たれる”議論は、どうしても話者が責任を、負わされるカンジになる。だから議論はいつまでも”待たれる”。だれか、はやくやってよ。
それでの15年であったのだろう。いくらまっても”待たれる”ギロンは始まらない、だから”医者が”まあ、もういいでしょう、臨床実験を始めますよ、とこうなったのではないだろうか。
近くの項で池田さんは、かの国の脳死体から、70個の臓器がパーツとして”活用”され、70名の待ちかねた患者に”有効利用”される実態をも記される。徹底的に再利用された脳死体は、ただその脳だけが利用されずに残るのだという。脳を変えたら、その人は違う人になるのだろうか。記憶が、意識が乗っ取られる??
その徹底さ加減や、のこされた脳がリアルに映像化されるようで、なんだかブラックジョークの雰囲気さえあるが、これは冗談では無いのである。
もうひとつ、類人猿であるボノボが、教えた言葉を使いこなすTV番組についての言及もあった。
それがなんの不思議なのか、と。動物との共感、これはなにも類人猿とではなくとも十分だ。かのダンディ君と、池田さん、あきらかに魂が交流しあって意思疎通ができている。
この感じ、実感として僕にもある。たとえば野良猫がなついて膝に乗ってきた。水槽から見つめる亀。なんだか話したげに寄ってくるカラス。
このモノたちの魂を明らかに感じる。ただただ、しゃべらない体に”いるだけだ”。DOG SUITS,と池田さんはおっしゃった。その伝でいけば、CAT SUITSにTURTLE SUITSか。
いや、たとえば臓器ひとつにも意識があるかもしれない。臓器を受け取って以来、くれた人の最後のシーンを繰り返し夢にみるのだ。その伝で再びいえば、たとえば木。
木にはなんらかの意識が、ありそうだ。
では鉱物はどうなのか。宇宙は?
ウーン、ありそうではないか。
ではでは、時計は?電池で動く、あるいはゼンマイで動く。これは生物の動きではないにしろ、なんらかの自動的な動きである。
まさにアニミズム、総てのものに意識は宿り。
なんだか頭がこんがらがってくるのだが、でも、たぶん、そうかもしれない。総てのものが成仏する、とした仏の考え方もまた、似たところがあるのかもしれない。
”心とは、それを心だと思っているまさにそれが心だという、心の不思議である。機械か生物かが問題なのではじつはない。”
P.497 考える日々 全編 池田晶子
”心とはいったい何なのか。
心は、人間を越えて全存在者を包摂するそれ自体は不可知の、しかしまぎれもない現実である。なぜなら、心がそれを現実だと感じれば、それが現実であるからである。”
P.500 考える日々 全編 池田晶子