夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

禅と神秘主義についてちょっとだけ。

キリスト教において神秘主義は端的に異端とされているように思う。

まず浮かぶのはマイスター・エックハルトである。

上田閑照先生の(その深い知見ゆえについ先生とつけてしまいましたが、勿論お会いしたことはございません)「禅仏教 根源的人間」1993 岩波同時代ライブラリー 初出は1973年8月筑摩書房刊 のさわりだけをちょっとだけ読んだ((笑))。

禅と似ているといわれるというドイツ神秘主義に含まれるエックハルトは「何故に神は人となり給うたか」(Cur deus homo?)という問いに対し、ある説教でこう述べたという。

「それは汝(聴衆の一人一人)を神の独り子として、すなわちキリストと同一なる神の子として生み給わんとする故である」
(同書P.6)

このエックハルトの思想について上田は、「神の受肉の意義をいわゆる贖罪論と結びつけて説く伝統的なキリスト教信仰の立場に比して、仏教に一歩近い所があるといわねばならない(P6-7)」と説く。

つまり「一人一人の開悟成仏において仏陀と自覚を等しくすると見る大乗仏教一般の考え方に相応している(P.7)」というわけである。

なぜに西洋正統派キリスト教は、神と人の合一を認められなかったのだろうか。現在の教義がどうなっているのかは把握していないが、多分「死して神と同一化する、あるいは神の子となる」という思想は未だ正統派キリスト教では認められていないように思う。

仏教、特に鈴木大拙西田幾多郎が行き着いた(大乗系?華厳系??)思想は、私なりの理解ではここで上田がいうとおり、悟りで成仏、つまりは仏に成る、というものだと思っている。ここでも私は仏教の中で禅仏教があるいは特異な位置にあるのやもしれない、とぼんやりと思うわけだが、ここでもまったくの不勉強である。

どう考えるのが「来世があるとしてより安心なのか」、

結局これにつきるような気がしている。

 

異端、と断じ、厳しく弾圧する理由は、その思想を認めることで、いわゆる正統派贖罪思想が中長期的には駆逐されてしまう、

この予感の故だ、という風に理解している(個人的理解です)。

 

どこかの本で読んだのだが、禅の成仏、仏との一体化を求めて出家した西洋の人が、あとでエックハルト等のドイツ神秘主義思想を知り(グノーシスだったかもしれない)、この思想を早く知っていれば自分は禅に出家(といういいかたをするかな??)しなかったかもしれない、と語ったという。

異国の人が、自身の「成仏」をいかに求めようとも、異国での修行がいかにしんどかったのか(いや現在進行形でしんどいのだろうが)、ということを思う。これは本音であるだろう。

輪廻があるのか、深層心理とは「神」と同質のものなのか、よく聞く「死んだらそれまでだ」と言い切るような思想の勁さともしかしての脆さ、あるいは浅さ(深い思想の後そう言っている可能性も含め)、を漫然と思う。

(上田先生の本、やっとすこし読めました。ジムで自転車こぎながら読みました。馬上と類似で結構頭に入るんですね、これが✨)