夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

霊ということばの扱いにくさと、言葉の「ドクサ」。

こんまりさんの片づけ本で、近藤さんが行ったいろいろなひとの片づけで、思ったより全裸で暮らしているひとが多い、という記載があり、気になって調べたところ、約5%のひとがそうだ、ということがわかった。

これは勿論一人暮らしの人へのアンケートであるが、つまりはひとりだととことん気楽でとことん好きなようにする、ということがわかる事実だ。

だが、何十年と全裸になれてしまうと、ある日結婚して服を着なければならなくなると面倒に思うかもしれない。全裸以上に楽な服はないので、これはなかなかむつかしい問題だ。

先祖代々全裸に近い形で生活していた原住民に服を着るようにさせたのは、たぶん「羞恥」「社会性」を押し付けたからだろう。果たして彼らが快適だったのか。逆に都会のひとり暮らしであれば、自室では原住民に先祖返りできるわけだ。

さて、最近は鈴木大拙、禅から出発して、神秘学、そして神智学ときてシュタイナーの人智学に来ているが、シュタイナーの著作を読んでいて個人的にすこしとまどうのは「霊」という言葉だろう。

シュタイナー自身は霊感があるひとで、子供のころ遠くで亡くなった叔母をなぜかシュタイナーの居た駅で見かけて、その時刻に叔母がなくなったことを後で知る、というような体験をしており、そういう意味では実践、実感に沿って霊を語れる人であったろうところが強い。

私自身は霊感どころか、通常生活でも勘が悪く、例えば博才だって皆無である。いあ、逆博才とでもいおうか、負けそうだな、と思うと負けているし、なんならじゃんけんでも勝率が3割くらいである(個人の体感です)

なので、「霊を見た」というような体験はまったくない。心霊写真だってないのである。

ある仏教学者の方が、仏教雑誌が売れなくて困る、と編集者から相談を受けた際、その編集者曰く、「霊ということばを入れると売れることはわかっているが、入れたくない」と語ったそうである。

かようにこの国で「霊」という言葉にはさまざまな「ドクサ」が染みついている。

いわゆる漫画であれば、一大ブームとなった「うしろの百太郎」「恐怖新聞」、そして「エコエコアザラク」といった傑作漫画を思い出す。映画ではこれも古典的に、オーメンエクソシストといったあたりで、いわゆるカジュアルな世界では霊や死霊といったものはごく当たり前の「観念的存在」にはなっている。

だがそこはエンターテイメントの世界であるので、ではその霊が本当にいますか、というところは議論にはなりにくい。というか基本、居ないものとして消費するイメージ、つまりは怪獣や怪人の世界とも近いだろう。これは個人的な受け取りで多少ばらつきそうだが。

そういったカルチャー、あるいはサブカルチャーと言われるもののイメージの洪水を経たあとで、では「本当に霊はありますか」となると、これは聞こえ方によっては「あなた怪人信じますか」という質問に近くなる。

なので、いわゆるまじめに「霊」を語ろうとしても、その語、漢字の「霊」を見ただけでビミョーな感じが漂ってしまう。

似たような言葉では、我が国における「宗教」の語がある。かっこをつけたのはさすがに信じている人々がいらっしゃるからであるが、本日の新聞ではキリスト教信者が多いといわれる米国南部?でも宗教を信じないとする層が増えており、約3割だそうだ。

まあ、いまだ7割は宗教をもっているわけで、日本の感覚ではまだまだ多い、という感じではあるが。

だがかの「オーム真理教」事件を契機に、多くのいわゆる宗教語にドクサがからみついた。

そもそも「オーム」の語さえ神聖な出自をもつのであるが、この日本で「オーム」と聞けば聞いたひとはほぼすべからくオーム真理教を想起することになるだろう。

オーム真理教事件を契機に、「グル」「カルマ」といった語を不用意に使うことができない雰囲気もある。そもそも日本人にあまりなじみがないことばであるので、本来の「グル」は導師のことなのだが、なんとなく麻原個人を示す語であるかのごとく、私など感じてしまうのだ。

宗教、霊、とくれば「霊感商法」、壺に何千万を払う、というイメージしか湧いてこない人がいる。私がそうだ。

なので、霊という言葉を使いにくい、という前述の仏教雑誌編集者の感覚はよくわかるところである。

だが問題として、では「霊」の語が使えないとなると、「霊」的なことを表現するのにどうすればいいのか、ということにもなってくる。

西田幾多郎は「霊」という語をほぼ使わなかったという。だが先日の日記でも書いたとおり、西田の思想はプロティノスの一者や、鈴木大拙の思想とも近く、借りにドクサがなければ「霊」ということばが一番もしかしてわかりやすかったかもしれない。

ユングの「潜在的無意識」にしても、これは「人類の霊」とでもいう面もあるだろう。だがそれを「霊」というと、学問的に難しくなってくるのは、これは多分ホームズの作者、コナン・ドイルが「降霊術にこっていた」と残念そうにその経歴で記されているのを見てもわかるとおり、過去のどの時代でも、あるいはここ日本と多かれ少なかれ似たようなものがあったのではないだろうか。

(まあ、あの「霊」ではない、この「霊」と言ったような表現が出来ればいいのかもしれませんが、言葉のイメージは独り歩きしますからねえ。。。)