夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

時間と空間とグルテンフリーと「大リーグ養成ギブス」。

今朝の体重65.7kg、体脂肪率10.7%。昨日サイゼリヤでチキンとグリンピースにオリーブオイルをかけまくったのが影響しているかもしれない。

体重を絞り気味にすると、基本いつも空腹感があるのだが、昨日はそうでもなかった。やはりすこし飽食気味なのであろうか。あるいはグルテン効果だろうか。

グルテンフリーという概念をジョコビッチ氏の本で知って実行して見て以来、体調はなんだかいい感じがする。

体重が一番増える要素は飲み会である。私は「食べ上戸」を標榜しており、とにかく飲み会では絶え間なく食べまくっているということでたまに驚かれる。自身では全く意識していないのだが。

星飛雄馬に大リーグ養成ギブスというものがある。このネーミングが秀逸で、なるほどこの鍛えは大リーグの為か、と着用者は折に触れ意識するだろう。実際のギブス効果に加え、脳みそへの効果もあなどれないものがあるだろう。

グルテンフリー、は実際のギブスではないが、にたような仕組みである。あることをある目標のためにやる、という仕組みだからだ。

ジョコビッチグルテンフリーでテニス世界王者に。

その図式を見れば、まさか自身はテニス王者にはならないが、自身にとっての「脳内世界王者」になるためにはこの「グルテンフリー」という「脳内養成ギブス」が効果的ですよ、と少なくとも私の単純脳には作用した。

なので、「グルテンフリー」していると、「自分は努力している」という感覚を享受できる。この感覚享受がけっこう気持ちよくて癖になるようだ。

いわゆる「幸福ホルモン」に近いものかもしれない。健康を求める行為の楽しさと仕組みは、このあたりにあるのだろう。

健康貯金、という言葉もあるし。

さて、ユングのいう深層心理については、きちんと学んだことがない(ないんかい!!)が、どちらかというとアカシア年代記というか、人類の今までの記憶がすべてプールされたたゆたう海、というイメージでいる。

多分正式にはそういうことではないのだろうが、ユングの傾向や生き様を見ていると、案外学術的にはそこまで言うとゲテモノ扱いされてしまうが、本音はそうだったろうと理解している。

ユングは日本では学術的なもの(河合さんのご尽力が大きいのでしょうが)と感じられるが、海外では結構ゲテモノと言われている、ときいて奇異に思ったこともある。

そこではつまり、個人の意識は、大きな全体の意識(それはすべてのことまもしれない)といっしょであえうか、あるいは一時この肉体に入ってとどまっているが死ねばまた戻る、というような感覚を生む。

これが「輪廻転生」の意識に近いのだろうが、西洋ではたぶん伝統的に輪廻転生は意識的に採用されてこなかったのだろう。

これも私の個人的な感覚だが、キリスト教では死んだのち個人は土葬で埋葬され、最後の審判時には棺桶よりその肉体でよみがえり、再生する、というのがスタンダードなのではあるまいか(これはタロットカードの図でのイメージがつよいです)。

そうなると、個人の魂はそのままとなる。

最近のAIにより、個人のライフログや(表面的な)キャラクターは膨大なメモリーにより、他の人間には「故人と同じレベル」と感じる程度まで再現した疑似ドッペルゲンガーが早晩実現するであろう。

だがお待ちください、その「疑似ドッペルゲンガー」は自分と似てはいるが、別に自分とつながってはいないし(勿論目で見たり記憶したものが日々アップデートされたりはするだろうが)、魂としてのつながりは感じないはずだ。

それはあたかも見た目まったくそっくりな双子で、魂は別々、という存在と変わらない。特別な機械ペットという感じはするだろうが、それ以上にはならないだろう。

双子同士は特別な共感力がある、というような話も聞くが。

深層心理が自然と全経験を再びプールするものであれば、わざわざデジタル的に記憶をプールしなくてもいい気がする。のだが、まあ、深層心理というのは生きているうちには人間には有無があかされないであろうから、存在も「科学的には」証明できないだろう。似たようなことはゲノムやDNAで言おうとしているのかもしれないが(科学教にて)。

いろいろ考えてきた「ミクロコスモスとマクロコスモス」=内面と外界、であるが、これと似た対峙形態として「時間と空間」というものがあるのかもしれない、ということをこの文章から感じた。いままでは時間と空間を同列に考えたことはなかったので、新鮮であったりのしたので、ここで引用しておく。

大自然と人間とを同じコスモスとして、互いに照応しあったものとして考える考え方は、ゲーテやドイツ浪漫主義の中にも顕著に現れている。それは内なるものと外なるもの、時間と空間とを統一のものとして体現することを目ざしている。
ヨーロッパの闇と光 高橋巌 イザラ書房 昭和52年 P.43

時間と空間とは実在と感覚とにわかれ、本来別なものというイメージがある。これが並び立つ、というのはしかしありうるような感じもする。

この感覚は、もう少し追及していきたい気がする。

(時間も空間も、把握しにくいですね。時間とは存在するのではなく単なる考え方のような気もするし、空間も青空で天空は限界がある感じがしますが、そもそも毎日「無限」を見ているわけですから。。)