夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

科学を「科学教」と知ることと、「霊性」との距離感のこと。

ここ日本で育った私の個人的な感覚であるが、

戦中派であった河合隼雄さんの持たれていた「日本的なもの」への警戒感とも繋がっていると思っている。

そのつながりは、「では科学であれば安心だ」につながる。

たぶんだいたい安心だと思うが、「それしか安心ではない」と決め切ってしまうことはすこし「そうなのか?」とも思っている(個人的に)。

では霊か。

池田晶子さんは「霊」につながりやすい面がある概念、「魂」という語を慎重に扱いながらも熟考された。

いわゆる「信じる」を強制する「宗教」を警戒され、自身が「教祖」と言われたらおしまい、という危機感を持たれていた(さすがに読者はだれもその方向にはいかず、単に(私のように)池田晶子さんは素晴らしい、という立場にとどまられたようだが)。

科学のみが唯一真実を示す、のだとしても、それを「信じる」という構えでいることが、その構えこそがやばいのだ、とおっしゃり、その立場を「科学教」と呼び警鐘を鳴らされたと認識している。

科学が示すこと「のみ」を受け入れ、他を糾弾する。いや、確かに科学以外は「うさん臭い」ものが多いことは多いのだが、果たして科学がすべてを網羅するものか。

それが現在の私のコンコロモチ、である(笑)。

何故そう思うか。

これはもう耳タコレベルでこの欄で言っているが、

宇宙、というものがあるとして、宇宙の端が膨張しているとして、膨張する「宇宙ではない先」がある、という点は、たぶん人間には分析できない、いや、科学的アプローチではどこまで行ってもわからないだろう、と思うからである。

宇宙が、「宇宙ではない先」に膨張するとして、「その先」が「ある」のなら、宇宙の果ては存在の果てではない。

これである。

これがあるので、「疑問があり、こたえられないものがある」と詠嘆し、その下に傍線をひくのみだーーとぶっ倒れる勢いで「考える」構えをもつ「哲学」の方に、個人的には軍配をあげる。

なので、「死後」もわからないのだ。

「死んでから」「現世に」戻ってきたひとは、私の感覚では「いない」からだ。

仮死、は別ですよ。

「存在の果て」「死後」、この二つは、傍線案件だ。

そこに「霊」「魂」を入れてもいいかもしれない。

「魂」と「精神」は、重なっているけど両者はイコールではない、というのが「一生わからないが、仮説としてはこんな感じ」として私が持っている感覚だ。

ユングはなんとなくこの「魂」を「潜在的無意識」とニアリーイコールのものであるとして、現実界にひきずりだそうとした(=科学的に考えようとした)人だと思っている(個人の感想です)。

その構えが、そして私個人的には嫌いではないし、惹かれるものがある。

河合隼雄さんは、ユングを日本に紹介されたときに、この「人によっては相当うさん臭く感じる」案件を極力避け、箱庭療法などの「現実的と万人が感じそうな面」を全面に出して、まずは「ユングアレルギー」ができるだけ起きないように配慮された形で世にだされた。

そしてそれは奏功し、日本では他国とくらべ比較的ユングは「アカデミック」に、つまり「大学で真面目に学んでもいい案件」として認識されているように感じる。

多分欧米ではそうではないだろう。

より「スピリチュアル」的に、語感は悪いが「トンデモ系的に」、扱われている気がする。

私はユングが好きである。なぜかはよくわからないが。

多分、その日々の日々の過ごしかたが、

感覚が、

おこがましいがすこし「似ている」感じがあるせいだろう、と思っている。

(おこがましーーー!!(笑))