夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

科学教の存在に意識的になる。

昨日の体重は65.7kg、体脂肪率は5.9%であったような。

最近すこしグルテンを食べている。

主にパスタであるが、昼に名古屋名物の袋うどん、「味噌煮込みうどん」を食べることが多い。

ただグルテンだけだとなんなので、その中にキャベツとワカメを大量に入れて、罪悪感を紛らわせている。

罪悪感?

まあ、勿論食べてはいけなくはないのだが、「自身でルールを守れなかった」という意識があるのだろう。

だが、ここで注意すべきは、この「罪悪感」を決まったものとして手放していることが実はよくないのかもしれない、ということだ。

自身の精神は自身のコントロール下に常に置きたいが、「決められたこと」「常識」「世間」という入口から形成された「エゴ」は、擬態としてあたかも私自身の精神であるように見えるので、たちが悪い。

ジブリの「ゲド戦記」は評判がいまいちだが、そして宮崎アニメを見ていると自然同じクオリティを求めてしまう私がわるいのだが、

吾郎さんでなくとも、世界のだれでもあの「宮崎駿」の馬力には簡単に太刀打ちできないだろう。

私も曲りなりにも絵を描く(銅版画)。その立場でいうと、あの「ナウシカ」の線を見ただけで、やる気が8割はそがれる。うますぎるのだ。

宮崎氏の次男さんは木版画家として有名である。宮崎さんのご子息、と思って版画を見ると、これは凄かった。ある意味駿氏と肩を並べるクリエイティビティを感じた。だが偉大なる父とある意味似た職業を選ばれたことは、通常とは違うご苦労もあったと推測する。

いや、そういうことを言おうとしたのではなく、

あの「ゲド」では、ゲドではない主人公が自身の影との対決に苦慮する。だがその「影」は敵ではない。自身の中に潜む、自身が「無意識に抑圧した」自身であるのだ。

エゴ、はそれと似ている。注視しておかないと、いつも自分こそが本当の自分だと主張する。

私が生まれてからこのかた、世界は「科学」のもとにある、というイメージを持ってきた。世界とは科学の目のもとで見て、理解すべきものである、と。それがルールである、と。

だがいろいろな「サブカルチャー」に接して感じること、いわば「公式見解」である「学校の勉強」で得る手触りとは違う。それはいま私がことばにしてみるのなら、「魂は科学ではわかりきらない」だろう。

中世西欧の常識は、色濃くキリスト教にいろどられていた。日本では仏教であろうか。そして科学の発展は、魂を宗教から解放した。

だが、解放することで、科学では本来わからないことも「科学ですべてわかる」という態度をとらないと「科学的ではない、蒙昧精神だ」ということになってしまう反作用もあった。

この世界には、わからないままおわるだろうことがある。

池田さんもおっしゃっている。

・死とはなにか

・生とはなにか

・魂とはなにか。

これは、たぶん、科学では答えが出ない。宇宙、についても、難しいのではないだろうか。

だが、そのようなことを思うだけで、「科学的ではない」「真面目ではない」というふうに思われるような(誰に?)感じがあった。

これは私が勝手に感じていただけかもしれないが。

 

池田さんはこれを「科学教」と呼んで、その姿を明らかにされた。

私はびっくりした。科学とは事実のことだったのではないか。

 

それを「教」と呼ぶこと。

これは「盲信」、真実と確信していないいないことを「無理に心を偽って」「信じること」を示している。

言われてみて気づいた。

たしかに、わからないことがある。そのことに意識的ではなかった。

 

たぶん、ひとはそのことを当たり前だというだろう。

だが「いつかすべてが科学であきらかになる」となんとなく信じていること、これが「科学教」である。

私は「科学教」は無理のようだ。

 

わからないことがある。わからないことはわからないままである。

 

ということを池田晶子さんから教わったので。

(科学教の自然な呪縛はすごいですね。エゴとにた感じがします)