見える、見えない、という区分けがあるだろうか。
わからない、がなんとなく見えるひとがいるように思う。
この「思う」が結構判断の分かれ目であろう。
しかしながら、自分に見えないと、最終判断がむつかしい。「見える」がないのだから。
だが、仮に見える人がいても、少ないだろうから大多数の「見えないひと」により宗教は育まれた、といえる。
私見では、「死」が生きているうちにはわからないので、その不安を「ネタ」に「わが宗教はその答えを提供しますよ」という交換条件が、多くの人々を宗教に導いたような気がしている。
一方で「奇跡」もあろう。不治の病が癒える、といったような。
他方、信じるという行為を、精神のほとんどに行わせるように、自らを仕向けることで、過度のストレス状況から逃げる、という機能も見逃せない。
様々な入口がある。
そんなことを考えるのは、最近「シュタイナー」の著作を手に入れたからである。シュタイナーはまずもって、「見える側」だったようなのだ。
(続きます)