夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

見えないものを実体として研究対象とすることの、危うさと面白さについて。

見える、見えない、という区分けがあるだろうか。

わからない、がなんとなく見えるひとがいるように思う。

この「思う」が結構判断の分かれ目であろう。

 

しかしながら、自分に見えないと、最終判断がむつかしい。「見える」がないのだから。

だが、仮に見える人がいても、少ないだろうから大多数の「見えないひと」により宗教は育まれた、といえる。

私見では、「死」が生きているうちにはわからないので、その不安を「ネタ」に「わが宗教はその答えを提供しますよ」という交換条件が、多くの人々を宗教に導いたような気がしている。

一方で「奇跡」もあろう。不治の病が癒える、といったような。

他方、信じるという行為を、精神のほとんどに行わせるように、自らを仕向けることで、過度のストレス状況から逃げる、という機能も見逃せない。

様々な入口がある。

そんなことを考えるのは、最近「シュタイナー」の著作を手に入れたからである。シュタイナーはまずもって、「見える側」だったようなのだ。

(続きます)

 

 

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