夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

エゴと外界と、シュタイナー。

生きていてつい思うこと。

それは「こうせねばならない」という思いを持つことだ。

 

こう思ったときの自身の気もちをモニターしてみると、どうも嫌な気持ちになっているようだ。

 

分解してみると。

彼(彼女)はできる。私はできない。私は劣っている。

この思いこそが「こうせねばならない」という気持ちのことだ。

 

だが、考えてみると、

彼のできないことが自身でできるかもしれない。

そもそも人と我を比較することが地獄なのであった。

 

であればここで思うべきは、

不足、あるいはできないことが知覚されてラッキーだ。

そのことを自身よりできる人を見つけたことで、自身で調べるか、教えてもらうか、ということへ進める。

 

という方向へ気持ちをもってゆき、その結果

 

エゴによる劣等感から逃れる。

 

ということだ。

 

そもそもエゴはそのことを邪魔しない。エゴはDNAだから、母体がなにか前向きになってくれれば(後ろ向きの前向きが得やすいのでそちらにいきがちだが)それでいい。要は「生きる意味」を半ば無理やりに生む装置がエゴなのだ。

なので、エゴ自身を「悪魔」「地獄」という必要は実はない。

 

ないが、24時間、起きている限り発動するので、とりあえず「地獄」といっておいて警戒しておくべきなのだ。

 

小さな変化でも変化は楽しい。後ろ向きでも変化は進化になりうる。

 

モニターすること、とは自身の反応をみることだが、反応を引き起こす外界すべてが、「教師」と同義語でもあるのだ。

 

(他人や外で起きるすべて(熱さ寒さの四季なども)は、皮膚を隔てて自身の中を「内界」と規定すれば「外界」といえますね。シュターナーはそれを「感覚」と言っていました。感覚は生きる上で四六時中伝わってきます。それを「経験」といってもいいですね。自身という個体が、個別で得ているものです)