苅谷剛彦”階層化日本と教育危機”を読んだ。

階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ
- 作者: 苅谷剛彦
- 出版社/メーカー: 有信堂高文社
- 発売日: 2001/07
- メディア: 単行本
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その後は旧制高校が”下に組み込まれる”形となり、結果的に選抜度が薄まり、日本的な”機会の平等”、つまり能力の差異があるということをできるだけあからさまにせず、”がんばればだれでも機会がある”というスタートラインの設定に腐心し、例えば米国等では出身人種や地区による差を”差別”とし、”能力の差がある”とみなすことを差別といわないことと比べ、能力の差があるということをあからさまにすることをナイーブに忌諱しつつ、受験のための勉強は真の勉強ではない、として”ゆとり”教育を実施、理想は良いが現場でなにをするかの予算も人もつけず、子供の能力が高まらなければ現場の教師の能力不足に帰し、その結果として全国的に学力が下がれば今度は海外との能力差を問題とし、”グローバル社会のグローバル人材として能力が不足”だとしてゆとり教育を失敗とし、ゆりもどしを行っている。
しかしたぶんゆとり教育や、受験のための無駄な勉強は実際の役には立たない、そんなことで腐心するのは、もはや幻想にすぎない定年までの正社員としての雇用、的なものにしがみつくわかっていない生き方である。それよりも実社会でたくましく生きるため、”辛く厳しい”決心をして生きていくぜオレは、という”一種のヤンキー哲学”(高校でたらまじめに生きるぜ、的な)自己肯定感が”学力下位の高校のなかで広がっている(学力下位、という表現も地雷かもしれないが)。それを筆者は”インセンティブ・ディバイド=意欲格差社会、最近は希望格差社会、と訳される場合もあるようだが)と呼ぶ。そしてその自己肯定感を危険なものと見ている。つまり”いまはいいが、今後継続的に働くことができる社会であろうか。この世界は”という危機感で(そんなことはわかってるが自分を今肯定するためにはこうするしか無いんだよ、という声が聞こえそうだが)。従って、できるだけ再チャレンジできる仕組みと、いわばはじきだされて、結果的に精神の自己防衛として無意識に選び取っている”学業を放棄することで得られる自己肯定感”の発生を教育で出来る範囲を厳格に見極めた上で、できることをやって抑制していこう、というのが作者の提言であるように思った。
以上、自分なりのまとめであり、把握違いがあるやもしれないが、日本社会に階層があり、それを教育の差別感、からないものとしてみないようにした結果”悪平等”とも言われる”通知簿や運動会の順位がない世界”が現出した、とする作者の主張は僕の実感とマッチする。
あまりにナイーブなのだ。クレームが恐い(僕も恐い)ので、それが出ないように細心の注意を払う文化であるのだ。ゆとりで真の教育を目指したことは間違いでは無いとも思う。しかし、その結果、ゆとりの時間がTVゲームに行ってしまった?当たり前である。自由時間が出来たら、一番面白い、といま表面的に思っていることをやるに決まっている。そうならないために自主的に学びの楽しさを伝えましょう?そんなことは条件と時間とカネがあればだれでもできますよ、そんな現場の教師の本音はしかし、わかっていてもなんとかするのが現場だよ、という”上の思い”で押しつぶされる。
そんな流れがあったのではないか。
どうすればいいのだろう。
教育とは結局自らを教育することしかない、と言ったのは誰だったか。
学校はそれを助け、機会を与えるものだ、と。
それは結局”誰も、組織も、国家も、社会制度も、助けてくれない。自分でやるしかないのだ”と深く実感するしかないように思う。
池田晶子さんであれば、社会も、人種も、国家も、そんなものはないのです、とおっしゃるであろう。同じことなのだ。自分はいま”イケダアキコ”をたまたまやっている世界霊魂の一部であり全部である存在なのだ、と。
端的には”悩むな!考えろ!”とおっしゃったことと近いような。
それは厳しく、辛い現実かもしれない。しかしそれを心から受け入れたとき、学問を”自らの為に必要な滋養”と真に思えたとき、その時に”教養”が必要であり、”真の学習”が初めて開始されるのではないか。
ゆとりが目指したものは(詳しくはしらないが)たぶんそのようなことだったのではないだろうか。しかし私見だが、その”わかるけどハードルが高い”と(自らも日本社会に育ったものである)教師が感じ、わざとなげやりなやらされ感でいやいや表面的な”ゆとり”学習基準に合わせて教育を行った。それがTVゲームが増えた、という結果であろう。TVゲームが増えても、僕は基本的にいいのではないかと思う。なにか”真に学ぶ”という萌芽が心のなかに植えつけられれば。その種を心に、ゲームをするなら、ゲームをすることも学びたりうる。そう思っている。
人間よ、お前は宇宙の
縮小された姿だ。
宇宙よ、お前は遙かな果てにまで
流れ出た人間の本質だ
「遺された黒板絵」より
笠井叡
神秘学概論(ルドルフ・シュタイナー著)解説より

- 作者: ルドルフシュタイナー,Rudolf Steiner,高橋巖
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1998/01/01
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物質的な”この”宇宙に、どうしても納得がいかない僕がいま感じている宇宙の本質は、例えば上の詩に現れている感じと近いようだ。こんなところから、始めるしかないように思う。
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えー、昨日紹介した”清洲城武将隊桜華組”の映像です。
このブログにご訪問していただいた方にどれだけ関係するかは不明なれど、敢えて。