夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

転生。

転生、という考え方がある。

これは体が魂の容れ物と見ることで成り立つ考え方だ。
輪廻転生、の転生だ。生まれ変わってみみずになるのはいやだ、というあれだ。

ソクラテスの想起説、出来ることは元から知っていることを思い出すこと、というのも、この考え方に類するだろう。

ここにあるのは、魂は不死であり、脈々と受け継がれる、という発想だろう。不老、といってもいいかもしれない。体は老いるが、心は若い、というアレだ。

人は歳をとると、魂は不変であっても、ふと、体とのアンバランスを感じることがある。魂にそって表す発露が、肉体の現在にそぐわないのではないか、という思いが、ふと心にきざすのである。

これが老いの始まりであるのか、いわゆる”子供時代”からの別れであるのか。

ガラス玉演戯 (Fukkan.com)

ガラス玉演戯 (Fukkan.com)

ガラス玉遊戯、を読んでいて、そんなことを考えた。主人公であるクネヒトが37歳頃にふと思う思いだ。ヘルマン・ヘッセキリスト教と共に中国思想やグノーシスにも強く惹かれた作家だが、そこでは精神史、それに親和する形で”受け継がれる魂”についての思索がある。前世、という言い方はドクサまみれで危険な言葉であるが、その純粋なる考え方からすると、”ほんとうかどうか”に力点を置くのではなく、”そうであるとすれば、さて”というスタンスで接するべきであると考える。死、と同じく、”この世”では我々は決して知ることのないことだ。だからそれはわからない。だが、考え続けることはできる。それを考えること、それは尽きぬ考える力の源泉の一つかもしれない。

すこしまどろっこしくなった。

なにが言いたかったかというと、”転生”をキイワードにした武将隊とご縁があったのである。

桜花爛漫

桜花爛漫

桜華組

清洲城、というところがある。織田信長にゆかりある城である。城自体は現存しないが、新たにもとあったところの対岸であるように思うが、再興されている。愛知県は武将、といわれる歴史的人物の記憶を数多く持つ土地柄だが、その中で清洲といえば”清洲越え”、つまり”中心は清洲から名古屋に行ってしまった”記憶の町でもある。過去のものであるとか、今栄えているのか、ということは本質的には関係がない。ここで最も重要なのは、”記憶”である。もっと言えば”過去にそうであって、いまは気配が希薄である”という立ち位置である。前世の魂が舞い戻る場所、それは今を盛りの”およびでない”アウェイ感よりも、過去の栄華の気配を残す、静かな地こそがふさわしいだろう。

転生、という言葉で、我々のイメージはあるいは山田風太郎の”魔界転生”に多く影響をされているかも知れない。1981年の映画では柳生十兵衛と魔界衆としてよみがえった天草四郎の映画、という印象が強い。

魔界転生 [DVD]

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DVDのカバーを見ても、千葉真一沢田研二の映画、という感じがする。ここではよみがえった魔界衆は恨みを呑んで現世でそれを晴らそうとするものであるので、基本的には”悪”である。この辺りの設定は、NRUTOの”穢土転生”あたりに引き継がれている。だが、この映画の印象が強いせいで、転生、はどちらかというとゾンビ的な、”本質的には人間の敵”というイメージで固定されてしまっている。これは惜しい、というか、本来的な転生のイメージではない。

清洲城武将隊桜華組”の設定を見てみると、”愛と義の戦国の魂、四人の女子に転生”とある。これは正しく転生の姿、であるといえるだろう。纏いし体は現世のもの。それは器でもあるからして、それが女子の体であった、たまたま。

こういう設定だ。転生、というものの本来の形をわかりやすく伝えるものだ。現世にうらみはない、ただまた舞い戻ってきた。
通常もつことの無い前世の記憶をもっている。これはある意味タイムススリップものであり、魂の入れ替わり(今であればそれを精神、というが)の物語でもあるのだ。

家老として隊をまとめる加藤殿は、いわゆる”戦隊もの”も意識されているという。町おこしでよくある”ご当地ヒーロー”、これが今ひとつプレミア感がないのは、”中身は誰でも交代可能”という感じであろう。実際は固定しているのかもしれない。だが、いえない。

そのあたりの、本物感を大事にしつつ、女子であり男子の魂(除く濃姫)である、という設定は大変面白いと感じている。

思わず熱く語ってしまったような気がするのだが、”世を忍ぶ仮の場所”での皆さんは、礼儀正しい好感の持てる方々であった。ぜひとも益々成功していただきたいと思っている。