ガラス玉遊戯 を読んでいる。
- 作者: 日本ヘルマンヘッセ友の会研究会
- 出版社/メーカー: 臨川書店
- 発売日: 2007/07
- メディア: 単行本
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前回どこかで”ガラス玉演戯”と書いたような気がするが、ヘッセの最後の長編となるこの本、手に取りやすい新潮社文庫にないのでなかなか入手は困難だ。今回は図書館で借りている。
今見ると、角川文庫でもあるようだ。
- 作者: ヘルマン・ヘッセ,井手賁夫
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 1993/08
- メディア: 文庫
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- 作者: ヘルマンヘッセ,高橋健二
- 出版社/メーカー: 復刊ドットコム
- 発売日: 2003/12/31
- メディア: 単行本
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まあ、これぐらいだと、今の書籍事情からすると当たり前なのかもしれないが。ヘッセの本を読み進めたあとでないとしっくりこない、ということもあるのかもしれない。
個人的には非常に肌にあうようだ。
”人間が絶望のうちに死ぬなら、これはひどく残念なことなのだ。
神は絶望というものを、私たちを殺すために遣わすのではない。”
P.485-6,聴罪師
神、というものは巨大な共通意識のなかの共通仮定のようなものではないかと最近感じている。神という意識に慣れていない日本人の反応では、神とは人格神、ひげを生やしたガンダルフ的な老人を意識するが、なんとなく西洋では”わかった上で、根本的に説明不可能な無からの創造を説明するための方便的論理”=神、であるような気がしてきた。
人格神のイメージで行けば、その人物が空を飛び、死者を復活させる、というだけで、”荒唐無稽”の文字が頭に浮かんでくるのだが、果たして全ての人がそういうかたちのものを”信心”としているのであろうか。
仏教でも曼荼羅や仏像や説話といったものは、”そういったものが契機でないと入って来れない”精神を、わかりやすく導くものである、と意識して使用されている、ということを聞いたことがある。また別の境地で、”そういうことにしておいて”聞いたら違う境地へ行きやすい、という受け手側の暗黙の了解がある場合もあるだろう。
そういう共通前提のあるところに、もやっと立ち上るもの、それが神。
まあ、本場のキリスト教徒と数百年前にそんな話をしたら、僕は直ぐに異端者にでもなってしまうのかもしれない。そうで無い時代である、ということはそれだけでも確かにありがたいことだ。しかしそうしたプレッシャーがないがゆえに、本気で考えることがない、という逆説も又真であるかもしれない。
そうそう、先ほど引用した部分、これまた少し強引かもしれないが、わが池田晶子さんを少しく思い出したので引用したのだった。このブログでも何度か取り上げている、”ガン漂流”作者への池田さんのコメント。これは”見られて死にたい”ということの批判と言う形を取っているように一見見えるが、それは池田さんの深い励ましではないか、というのが今までの僕の観点である。それが批判の形を取っていようとも、”愛の在る叱責””先を知っているものによるなぞかけ”であった場合ではないかと。しかし、表面的に”事実”を見た”なにかにコメントをしたい素人”からすると、これは格好のエサであった。批評したいが為の批評、を池田さんは嫌っていたと考えるが、まさしくそれが横行する空間で、批判が起きた。そう認識している。
引用文を読んで、自らもよく知っているガンの絶望を(池田さんの”絶縁状”を読むと確かに感じるある種のもの)抱えもったまま死に向かうことを”ひどく残念”に思われたのに違いない。
そう思ったのである。そしてそのことを伝える相手は、当の本人のみ。他の部外者にどう思われてもどうでもいい。
そう考えられたのだと、思ったのである。
”神は絶望というものを、私たちを殺すために遣わすのではない。”
この時の神、は信じる、信じないで生まれたり消えたりする、あの神ではないはずだ。まして金を要求することはあるわけない。
真理、や叡智、といったものなのかもしれない。